極真分裂.02  松井派、支部長協議会派、遺族派?
2020年10月27日 更新

極真分裂.02 松井派、支部長協議会派、遺族派?

1994年、大山倍達没後 激動の1年。

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1995年3月18日、八巻建志と前回の世界大会でアンディ・フグを失神KOしたフランシスコ・フィリョの100人組手が行われた。
西池袋の極真会館総本部の2階道場には全日本ベスト8を含む対戦相手が勢ぞろいした。
土曜日で休みだったが、廣重毅は知り合いの病院に頼んで待機してもらった。
これは増田章のアドバイスによるもので、増田章は日曜日に挑戦し病院が休みだったために翌日に入院したため腎不全が悪化し入院は2ヵ月に及んだ。
松井章圭は100人組手を
「70人目になると相手を殺したくなる。
80人目になるとそんなことも忘れ90人目以降は立っているのだやっと」
といった。
事実、松井章圭は67人目で頭突きと道着をつかんでの膝蹴りを行い、増田章は76人目で相手に噛みついた。
八巻建志のセコンドには緑健児がついた。
次の世界大会の優勝候補であるブラジル支部の磯辺師範が鋭い視線でみていた。
八巻建志の挑戦の後、弟子であるフランシスコ・フィリョが挑戦することになっていた。
10時21分、太鼓が鳴らされ100人組手が開始。
1人目は八巻建志の後輩の塚本徳臣。
やりにくそうな2人に松井章圭が檄を飛ばした。
「チンタラやっていたらダメだよ!」
3人目、再度、松井章圭が注意。
「力を抜いてやったら中止にしますよ。
意味のない100人組手にしないでください」
この言葉で場内の空気が変わり、遠慮気味だった対戦相手が一気にヒートアップした。
10人目を超えると汗で重くなった両腕のサポーターを外した。
30人目黒幕くらいまでは、上段、中段の蹴り、膝蹴り、踵落とし、後ろ回し蹴りなどの大技も出ていたが、徐々に相手の軸足を刈って下段突きを決めるケースが増えた。
40人目が終わったところで右膝のテーピングとサポーターを手早く外してコールドスプレーで冷やした。
50人目を終えた時点で負け無し。
脚は動かず相手の攻撃を受けることが多く、相手の攻撃をブロックしても、ブロックした腕に激痛が走った。、
60人目を終えたところで15分インターバル。
汗を含んで重くなった道着を着替え大の字に寝転がりマッサージを受ける八巻建志を緑健児が励ました。
「大丈夫いける。
絶対いける」
両脚、両腕は腫れ上がり相手の攻撃をブロックするたびに激痛が走り、ガードが甘くなりなんでもない攻撃をもらい後退するシーンが目立つ。
80人目を終えて廣重毅が檄を飛ばした
「八巻、100人組手はここからだ!」
(そうだ!これからだ)
「やめ」
「はじめ」
意識が薄く、主審の声が遠くに聞こえた。
苦痛に顔が歪み相手の攻撃を身をよじって避けようとして90人目で初めて負けた。
「あと10人」
「アーアー」
攻撃をもらうと泣き声とも呻き声ともつかない声が口から漏れた。
100人目の数見肇は容赦ない突きと蹴りを先輩に叩き込んだ。
その1発1発は先輩、がんばれと励ましているようでもあった。
2人は脚を止めて打ち合い、終了の太鼓が鳴った
八巻建志が天を仰ぐと天井がグラリとゆれて体がよろけた。
所要時間3時間27分
1本勝ち22
優勢勝ち61(技あり23)
引き分け12
負け5
すぐに車で病院に直行し治療が始まった。
「どうしてこんなひどいことになったの?
交通事故?」
医者が驚くほどの惨状だった。
極度の全身打撲で筋肉の組織が破壊され、急性腎不全を併発していた。
尿道に管を差し小便を出すと色がドス黒くポツポツと肉の塊のようなものが浮いていた。
破壊された細胞の破片だった。
点滴がうたれ酸素マスクを口に当てられた。
「人工透析しなきゃダメだな」
医者がいった。
八巻建志はできれば自然治癒させたいといった。
「10日して尿の潜血などの数値が下がらないようだと透析に踏み切らざる得ない」
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フランシスコ・フィリョは、八巻建志のように打ち合わず、相手と距離を保って強力な蹴りで戦い、
1本勝ち26
優勢勝ち50(技あり38)
引き分け24
負け0
と史上初の無敗で100人組手を達成した。
大したダメージもなく翌日には茨木健武道館で行われた全関東大会を観戦しブラジルに帰っていた。
その頃、八巻建志は病院でウンウン唸っていた
フランシスコ・フィリョが観戦した全関東大会(1995年3月19日)には、城西支部の分支部長である黒澤浩樹もいた。
大会後のレセプションで城西支部の先輩である三和純に声をかけられた。
「話がある」
そして別室に移動すると増田章がいたが、三和純に耳打ちしただけで部屋を出て行った。
増田章は、城西支部では黒澤浩樹の後輩だった。
「廣重師範が黒澤に会いたがってるから、これから会ってくれないか」
三和純にいったが、それは変な話だった。
城南支部と城西支部はライバルだったし、廣重師範と黒澤浩樹は個人的にも犬猿の仲だった。
黒澤浩樹が城南支部の道場生に
「城西支部の選手は弱い」
といい、それを聞いたカチンときた廣重師範が試合に勝つことに燃え始めた。
1988年の第20回全日本大会3回戦で、黒澤浩樹は吉岡肇と対戦。
黒澤浩樹はガンガン押して優勢に試合を進めていた。
中盤、 吉岡智の上段後ろ回し蹴りが側頭部に巻きついたが腕でブロック。
黒澤浩樹は、体勢を崩したがダメージはなく攻撃を続行し、吉岡智を場外に押し出した。
しかし副審の広重毅師範が笛を吹いて、吉岡肇の「技あり」をアピール。
流していた主審が、あわてて試合を止めて、4人の副審の確認をとった。
すると全員が旗が上がって、黒澤浩樹は「技あり」をとられた。
(倒せばいいんだろ!!)
黒澤浩樹は怒りを爆発させ、すぐに吉岡智をダウンさせ「技あり」を取り返した。
ここで冷静に戻れば確実に勝っていただろうが、黒澤浩樹はアクセルを戻さず強引な攻撃を続けた。
吉岡智は、間合いを詰めて攻撃してくる黒澤浩樹に冷静に下がりながら左上段回し蹴りを合わせた。
黒澤浩樹はマットに倒れ、技あり、合わせて一本。
そして退場後、
「すまん。
俺はないと思ったけど、廣重師範が笛を吹くもんだから・・・」
と主審が声にかけられた。
「どうして自分が廣重師範に会わないといけないんですか。
何の用事があるんですか。
それになぜ三和先輩が廣重師範の代理で自分にそんなこというんですか。
おかしいじゃないですか」
「自分と増田は三瓶先輩からいろいろ極真の現状を聞かされた後、三瓶先輩にいわれて廣重師範に会いに行った。
廣重師範からも話を聞いてこのままじゃいけないと思ったんだ。
松井さんが館長では極真は潰れる。
三瓶師範と西田師範は支部長協議会のトップとして松井さんを館長から降ろして民主的な合議制で極真を運営していかないといけないとおっしゃってる。
そうしないと極真は松井さんの独裁になってヤバイ連中に乗っ取られてしまうんだぞ。
だから自分と増田は支部長協議会の一員として極真を守っていこうと思う。
それで廣重師範が黒澤を呼んでくれというのでお前に話をしているんだよ。
山田師範は松井さんと一心同体なんだ。
山田師範のもとにいたら自分たちはみんな飼い殺しだよ。
一生支部長になれない
今離れないと大変なことになるぞ」
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三和純と増田章は100人組手が行われた日に廣重毅と会った。
三和純は、城西支部の古い黒帯で、山田雅捻の代わりに城西支部本部道場の指導を任せれるほど優秀な分支部長だった。
として城西支部を支えていた。
増田章も、城西支部分支部長だった。
元々は石川県支部出身で最初に空手を習ったのは浜井識安。
そして城西支部に移籍後、山田雅捻の指導を受け、全日本で優勝し、世界大会で2位になり、100人組手を達成した。
三瓶啓二と中村誠の「山誠時代」の後の極真は、松井章圭、黒澤浩樹、増田章の「三強時代」だった。
黒澤浩樹も増田章も松井章圭に試合で1度も勝てなかったが、
「ケンカでは勝っていた」
と評価されるほど、その強さでは負けていなかった。
2人は師である山田雅捻に弓を引くことになることを承知で、その場で支部長協議会派に入ることを決めた。
支部長協議会派に入った支部長は、松井支持の支部長や支持不支持が明確でない支部長を勧誘していった。
中でも猪突猛進の増田章とその小さな体で無差別級の世界大会で優勝した「小さな巨人」緑健児の存在は大きく、支部長協議会派は急激に人数を増やしていった。
「会いたくありません。
自分は廣重師範が嫌いですから」
黒澤浩樹は、そういってレセプションを欠席し帰宅してしまった。
三和純の話も、コソコソ耳打ちして出て行った増田章の態度も気に入らなかった。
黒澤浩樹は松井章圭と同年齢だったが、まだ現役だった。
分裂騒動も、第6回世界大会を目指し汗をかき続ける黒澤浩樹にとって問題ではなかった。
(勝ちたい!)
(燃え尽きたい!)
それがすべてだった。
家に帰ると廣重師範が電話をかけてきたが居留守を使った。
翌日も電話があり、さすがに受話器をとった。
「松井への反発がものすごく大きくなっている。
このままでは松井はやっていけなくなるだろう。
今は何としても選手を中心にまとまらなければならないんだ。
だから黒澤君も私たちと一緒に動いてくれ」
「自分は結構です」
「君はそんないい加減なことでいいのか!」
説教が始まったが黒澤浩樹は、
「押忍」
といいながら聞き流した。
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1995年3月31日、大山倍達の遺族の遺言書の無効と執行差し止め請求に対して、東京家庭裁判所は

1 証人の梅田嘉明が株式会社グレートマウンテンの代表取締役になっていて利害関係があること
2 遺言書で娘の名前が間違って表記されていること
3 智弥子夫人を遺言書作成から排除し」、死後数日たってから知らせたこと

という点から遺言書の無効を認めた。
1995年4月、極真空手の月刊機関紙「パワー空手」が、「ワールド空手」に名前を変え創刊された。
それまで「パワー空手」は、大山倍達が代表取締役だった「(有)パワー空手出版社」が発行権を持って、ぴいぷる社が制作を委託されていたが、大山倍達死後、妻の智弥子が(有)パワー空手出版社の代表となった。
そして遺族派によって2代目館長に立てられた大山智弥子は、「パワー空手」で松井章圭館長関連の記事は掲載を禁じた。
ぴいぷる社はそれを拒否し、新たに契約を結び直し「ワールド空手」を創刊。
内容はほぼ同じだった。
同月、「パワー空手」臨時増刊号が
「家裁の審判下る!
遺言書は無効」
という見出しで発刊された。
(その後、発刊されず廃刊になったかと思われたが、2年後の1997年11月、「大山倍達が総裁が残した極真唯一の機関紙が復活」と過去の記事を編集し発刊。
さらに半年後の1998年5月、6月と立て続けに発刊。
その後消えた)
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松井章圭は、全国の支部長に新しい人事を発表した。

相談役:黒澤明
理事長:梅田義嘉
理事:大西靖人、米津等史
統括本部を創設し本部長:山田雅捻
副本部長:浜井識安、廣重毅

遺言書の証人や自分の支持する支部長を役職につけるやり方に、廣重毅は
「こんな人事を発表したら反発される」
と反対したが、郷田勇三に
「気に入らない奴は辞めてくれて結構だ」
といわれた。
そして廣重毅は支部長協議会派に入った。
1995年4月4日早朝、三和純と増田章は山田雅捻の家を訪ねた。
「どうした?」
増田章は松井館長を支持できないと話し出した。
「わかった。
要は三瓶さんたちと一緒にやりたいんだろう?
好きにやっていいよ」
(山田雅捻)
「自分は支部長協議会派でやっていくことにしました」
(三和純)
「岡本はどうするんだ?」
全日本大会で4位になった岡本徹は三和純が育てた選手だった。
「自分についてきてくれると思います」
「そうか、いい弟子を持ったな」
支部長協議会派は、すでに過半数の支部長を獲得していたので、館長解任の決議を行うことを決めた。
支部長協議会ではなく支部長会議を開くことを全国の支部長に通達した。
1995年4月5日、松井章圭、郷田勇三、盧山初雄、浜井識安は「支部長協議会」と思って会場に向かった。
支部長会議は正装である黄色のブレザーの着用が義務付けられていたが、支部長協議会は私服が認められていたので4人は私服だった。
しかし会議室に入るとみんな黄色のブレザーを着て座っていた。
「どうしてみんなブレザーを着ているんだ?」
浜井識安が聞いても誰も答えなかった。
硬い表情で目も合わせなかった。
14時、
「これから支部長会議を始めます。
議題のある人は挙手願います」
西田幸夫が会議をスタート。
すぐに三瓶啓二が手を挙げた。
「議長、館長の解任を議案します」
異議を唱える者はおらず
「では館長解任の議案が出たので決議を行います」
館長解任に賛成の人は立ってください」
議長(西田幸夫)、副議長(三瓶啓二)を含む38名が立ち上がった。
(支部長は欠席を含めて全部で48人いた)
「お前ら、これはどういうことだ」
郷田勇三、盧山初雄、浜井識安は、西田幸夫、三瓶啓二に詰め寄った。
「何も話すことはありません。
これが現実なんです」
(西田幸夫)
松井章圭は支部長の顔をみたが、みんな下を向いて目を合わせようとしなかった。
「皆さんは僕の何がそこまで気に入らないんですか?」
「俺はお前の話し方も歩き方も、お前の全部が嫌いなんだ」
(柳渡聖人)
「ではこれで支部長会議を終わります」
西田幸夫は、郷田勇三、盧山初雄、浜井識安の抗議を無視し強引に閉会を宣言。
支部長たちは我先に会場を出て行った。
「松井、絶対に立つなよ。
堂々と座っていろ。
いいか、我々でなくあいつらが出ていくんだからな」
(盧山初雄)
会場の残ったのは、松井章圭、郷田勇三、盧山初雄、浜井識安、浜井良明(富山県支部長)、湖山彰夫(鳥取、島根県支部長)の6名。
山田雅捻は所用で欠席。
廣重毅も所用で遅刻していて、着いたときはすでに約20分間の会議は終わっていた。
「よかったな、松井。
みんな出て行ってくれた。
これで本当の空手ができる。
私たちを支持してくれる人間だけで精一杯極真を守っていこう」
(盧山初雄)
そして総本部へ戻ることにした。
ホテルの入り口に記者にいた。
「重要な発表があるとFaxが届いたのですが何の会見ですか?」
「記者会見?
そうですか。
そういうことですか。
最悪の事態になってしまいました。
極真会館派分裂です」
 (2233468)

支部長協議会派は同じホテルで記者会見を行う手はずを整えていた。
15時45分、記者会見が始まった。
緑健児、松島良一(審判長)、三瓶啓二、西田幸夫、長谷川一幸、桝田博(副審判長)が並び、その他の支部長が記者席の後ろに陣取っていた。
三瓶啓二は「館長解任の宣言文」を読み上げていった。
「松井章圭君を極真会館館長から解任することを決定いたしました」
「解任理由は、極真会館の私物化、独断専行、不透明な経理処理」
「今後は西田幸夫支部長協議会議長を中心にした新体制」
「(遺族派が大山智弥子を館長としているので)館長という名称は使わない」
「智弥子未亡人にはできれば組織に入ってもらいたいと思っています」
「松井君は速やかに極真会館総本部から身を退き明け渡すべき」
「松井君が自らの行動の非に気づき反省した上で一支部長として我々と汗を流したいというのであれば、いつでもこれを受け入れる」
松井章圭、郷田勇三、盧山初雄、浜井識安は総本部に戻った。
「あいつら本部にやってくるから今夜はここに籠城するしかないぞ」
盧山初雄の言葉に笑いが起こった。
しかしその通り、西田幸夫、三瓶啓二を先頭に支部長協議会派の支部長が押し寄せてきて、総本部のロビーで対峙した。
「解任されたのだから出ていけ」
「そうだ、そうだ」
「決議に従って退去」
「館長を降りろ」
多勢に無勢だったが、盧山初雄は怯むことなく声を張り上げた。
「なぜ松井が出ていかなければならないんだ。
あんな茶番劇は認められない。
そもそも支部長会議にも支部長協議会にも館長を解任する権限はないはずだ。
お前らがやったことはクーデター以外の何物でもない。
それに松井が気に入らないと極真から出ていったのはお前らのほうだろう。
勘違いするな」
「38名もの支部長が松井ではダメだといっているんです。
それを認めるべきでしょう。
松井解任に異議がある人も出て行ってくださいよ」
(三瓶啓二)
「お前ら上等じゃないか。
ふざけるな。
そこまでいうなら俺はそのケンカを買うぞ」
(郷田雄三)
押し問答が続いたが、誰かはわからないが
「もう疲れたら帰ろう」
という一言で支部長協議会は帰り始めた。
「また出直してきます」
三瓶啓二もそういって引き上げた。
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翌日(1995年4月6日)、山田雅捻は城西支部の分支部長を招集した。
「一昨日の朝、三和と増田が家に来て、「自分たちは松井を立てることはできないから向こうの組織にいきます」といって帰った。
お前らも彼らと一緒に支部長協議会派でやっていきたいならいってもいいぞ」
黒澤浩樹を含む分支部長たちは
「山田師範についていきます」
といった。
19時、松井章圭、郷田勇三、盧山初雄、山田雅捻、浜井識安、湖山彰夫の6名は、マスコミ懇談会を開いた。
「昨日記者会見が行われたこともあり、私共としましてもお話したいことがありますので、お聞きいただければと思います。
今後の体制ですが、新執行部という形で統括本部を置き、私が本部長を務めることになりました。
副本部長は、浜井識安支部長です。
また城西支部の分支部長だった5名が今後はそれぞれ支部長として活動します。
城西中野支部長に黒澤浩樹、城西吉祥寺支部長に小笠原和彦、城西田無支部長に中江辰美、城西三軒茶屋支部長に田口恭一、城西国分寺支部長に江口芳治が就任しました。
次に昨日、支部長協議会名で出された文書に関して、支部長協議会として召集されたものがいきなり支部長会議となって、緊急動議で解任ということでしたが、大山総裁の医師が2代目館長は松井ということでしたので、私共は総裁の意志を継いでいく所存です」
(山田雅捻)
「極真会の問題で皆様にご迷惑、ご心配をおかけいたしました。
お騒がせしていますことをこの場を借りてお詫び申し上げます」
松井章圭はそういってから、解任の理由とされた極真会館の私物化、独断専行、不透明な経理処理について説明していった。
私物化については
「極真会館という商標は極真のトレードマークですよね。
あの商標権が全て私の個人名で登録されているという部分で支部長たちが不信感をおっしゃったようですけれども、
実際、私の個人名による登記となっております。
とはいえ個人のものではありませんから将来、法人化ができれば速やかにそこに移します」
独断専行については
「私が館長に就任してから10ヵ月間、私個人も仕事に100%間違いがなかったとは断言できないかもしれません。
実際反省すべき点もあると思います。
ただ日々の組織運営上、全国の点在する支部長たちに逐一報告と承認を得ることが物理的に不可能であったことは歪めなかった。
このことは理解の範疇内であると思っています」
不明瞭な会計処理については
「極真会館がこれまできちんとした形で法人化されてこなかったために運営資金が会館の業務として使われていた分、また大山倍達個人の分、という形で預金が分けられていなかったりですね。
いろんな形で重なっていた部分があったものですから、それは極真会館側も遺族側も当然困った部分ではあったんです。
けれどもそれに対して極真会館が活動する上での当座に必要な運営資金が足りない部分があったことを知った上での批判ではなかったのではないかといいたい」
とし、
「支部長協議会側の解任理由や悔い改めて共に汗を流すなら1支部長として認めるという条件受け入れられません。
もちろん筋が通った大義があり、それが正論ならば私は降りるべきだと思います」
と結論づけた。
「こうなってしまったことは残念ですが、関係改善の可能性がある限り話し合いをして、これからも松井館長を支持していきたいと思います」
(郷田勇三)
「昨日の彼らの行動をみても勇み足ではなかったかというのが実感です。
彼らは感情だけで行動を起こしてしまったのだと思います」
(盧山初雄
「昨日の支部長会議でも急に三瓶支部長が立ち上がって解任動議をすると、西田議長が仕切って解任を決定し、我々の意見も聞かずに勝手に会議を終わらせてしまった。
支部長協議会側を非難するわけではなくいろいろと行き違いもあると思います。
つまり決裂したというのではなく支部長たちはいつでも帰ってきてほしいと本部の門は開けて待っているといいたいですね」
(浜井識安)
 (2233280)

1995年4月9日、郷田勇三は、手紙を全国の支部長に送った。
見出しは
「すべての支部長に呼びかける」

・過ぎたことは一切問わず明日からのことを前向きに話し合いたい
・松井館長を除くすべてを白紙に戻し、みんなの合意で改めて人事を決定したい
・大山智弥子夫人の呼びかけで4月25日、総本部で故・大山倍達総裁の1年祭が執り行われるので出席するように
・4月24日に全支部長による話し合いを行いたい
とした。
仏式で「1回忌」と呼ぶものが神式では「1年祭」になる。
当初、遺族と遺族派は、1年祭は4月23日に行うことを決めていたが、松井章圭と話し合った結果、25日に大山智弥子個人を主催者にして共同で行うことを決めていた。
1995年4月11日、入院当初、八巻建志は、体全体がむくみ顔は黒くパンパンに腫れ上がり、食事は液状の栄養食で塩分、油、タンパク質は一切禁じられたが、その後、超人的な回復力をみせていた。
見舞いにきた関係者に
「分裂は悪化する一方だ。
君にはいろいろ吹き込みにくる人間も多くなるはずだ。
一刻も早く退院したほうがいい」
と忠告されたため、医者に
「もう1ヶ月の入院したほうがいい」
といわれたが退院。
3週間の入院で100人組手に挑戦したとき107kgだった体は90kg台まで落ちていた。
1995年4月12日、退院翌日の早朝、自宅の電話が鳴り緊迫した声で
「記者会見を開くから2時間以内に来て下さい」
といわれ、八巻建志は歩くことさえ困難だったが這うようにタクシーに乗ってホテル国際観光へ向かった。
そして西田幸夫、三瓶啓二、長谷川一幸、廣重毅、増田章と共に「記者懇談会」を行った。
「要は信頼関係が失われたということ」
と西田幸夫、三瓶啓二、長谷川一幸、廣重毅は、松井派の批判と解任の正当性を主張。
八巻建志はマスコミに意見を求められ
「自分は選手なので今まで以上にしっかり練習して頑張ってまとまっていきたいと思います」
とコメント。
後で
「なんだ、お前のあの話は。
いうべきときにいわないのは武道家ではない。
もっといろんなことをいえばよかったんだよ」
と嫌味をいわれた。
(一体何をいえというのか。
松井館長への誹謗中傷か。
松井館長にも大変お世話になっているし、一方のいい分を聞いただけで判断するような軽率な真似はしたくない。
それに選手は世界の強豪と覇を競うため血のにじむような苦しくて辛い稽古に耐えているのに、極真が大山倍達総裁の遺志を受け継いで一致団結していくこと以外、何を望むというのだ。
それに私の師は廣重師範1人だ。
弟子として師範の選択に従うのは当然だろう)
その後、
「お前はどうしたいんだ」
と廣重毅に尋ねられた八巻建志は
「強い人間のいるところで戦いたい。
それだけです」
と答えた。
「そうだな。
そうしたほうがいいな」
廣重毅は静かに頷いた。
 (2233281)

この時点で、国内は反松井派の数が松井支持派を大きく上回っていた。
分裂は海外にも波及し、世界各地で支部や選手の取り合いが起こった。
「別に松井君に極真から去れ、といっているのではないのです。
もう一度、支部長からやり直してこれまでのことを精算してほしいのです。」
(三瓶啓二)
「松井先輩、もう一度支部長からやり直しましょう」
(緑健児)
「全国で半分以上の支部長たちが辞めてくれといっているんです。
だから松井先輩は辞めるべきです」
(増田章)
「いろんな意味で松井君は急ぎましたね。
松井君は館長に就任するなり5人の支部長を事実関係もあいまいなままいとも簡単に除名にしました。
大山総裁も、生前は何人かの支部長を破門、除名にしましたが、
その際も何回も支部長会議を開き、除名にするのを最後の最後までためらったものですよ」
(松島良一)
「もし松井君たちと和解することがあるなら彼が元通り、1番下の支部長として出直すときだけですね」
(三好和男)
「松井館長は極真のためを思ってやったことかもしれませんが、あまり他の支部長のことや会議で決まったことを優先せず物事を決めて、それが裏目に出てしまった」
(七戸康博)
「松井先輩を公私にわたり尊敬してきました。
しかし館長になってから人が変わったように仕切りたがるようになった。
あまりにも自分の好きなようにやってしまうことが多く、不信感が募っていきました」
(黒岡八寿裕、和歌山県支部長)
などと明確に三瓶啓二を否定する支部長もいたが、
「具体的な話はあまりよく知らないまま会議に出席してしまいました。
松井君からは何も聞いていないし、西田議長や三瓶副議長、山田師範とは共に本部で汗を流した仲間なので複雑です」
(川畑幸一、京都府支部長)
「自分は松井館長が解任されたという支部長会議は所用で欠席したし、これまでも一方的な話ばかりで詳しい事情はほとんど聞かされていません」
(柿沼英明、千葉県北支部長)
「松井君とは直接つき合いがないからよくわからないけど、ワンマンという部分はあった気がする。
田舎の支部で情報もまた聞きだったのでそれほど切迫した状況だとは思いもしませんでした。
みんな急ぎ過ぎていますよ。
私個人としては今は静観するしかないと思っています」
竹和也(鹿児島県支部長)
館長解任決議後、支部長たちはそれぞれ心境を抱えていた。
しかし
「2代目は松井で間違いない。
あっちが正しいとかこっちが悪いとか、松井館長に支部長たちがケンカしかけて何の意味があるんや。
こんなことで大会を開けるのか心配です。
選手のことを考えてなぜ一緒にできないのかと思う。
自分はあくまで選手や生徒のことを考えて大会を開催する方を応援します。
東京ではずいぶん前から松井館長を批判して三瓶君たちがゴタゴタやっていたみたいだけど、結局は1つの極真なんだよ」
と中村誠は松井館長支持を表明。
世界大会2連覇のキング・オブ・キョクシンを敵に回すことになった反松井派の支部長は動揺した。
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  • ニックネーム 2020/10/31 14:05

    極真カラテは大山ファンクラブであって格闘の「術」ではなかったのかな…
    悲しいなぁ…

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極真分裂.01 後継者の資格

1994年に大山倍達が亡くなられる前年(1993年)までを、その後に起こる分裂騒動のキーマンを中心にまとめ。
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極真分裂.04  みんな極真を愛していた

極真分裂.04 みんな極真を愛していた

2000年以降、極真の分裂は沈静化。いろんなことがあったが、結局、みんな極真空手が好きだった。
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佐竹雅昭  生涯一空手家 永遠の空手バカ

佐竹雅昭 生涯一空手家 永遠の空手バカ

あくまで最強の男を目指し、「闘志天翔」というテーマと、「1位.夢、2位.健康、3位.お金」という人生価値観を実践し続ける男。 空手を武器に総合格闘技のリングにも立った空手バカ一代男は、90年代の格闘技ブームの立役者となった。 批判されることもあるけど、ほんとうに強いし、ほんとうにナイスガイ。 間違いなく格闘技ヒーローである。
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角田信朗  冷徹なリングでモロに感情を露出させる愛と涙と感動のファイター!

角田信朗 冷徹なリングでモロに感情を露出させる愛と涙と感動のファイター!

K-1や空手のトーナメントでの優勝経験ナシ。 なのに正道会館の最高師範代であり、メディアへの露出度も多い。 特筆すべきは彼の試合は、その人間性や感情があふれ出てしまうこと。 これは選手としても、レフリーとしてもそうで、インテリとむき出しの感情を併せ持つ愛と涙と感動の浪花男なのである。 最近、ダウンタウンの松本人志との騒動が話題になり、角田信朗の人間性を批判する人もいるが、私はその批判している人の人間性を疑っています。
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