極真分裂.02  松井派、支部長協議会派、遺族派?
2020年10月27日 更新

極真分裂.02 松井派、支部長協議会派、遺族派?

1994年、大山倍達没後 激動の1年。

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1995年4月12日、支部長協議会派の会見の翌日、大山倍達の遺族は
「遺言書は家庭裁判所で無効と判定された」
と発表。
(裁判所が無効を決定したのは3月31日、通達が届いたが4月12日だった)
夜中、高木薫ら遺族派の支部長が、中から大山智弥子にカギを開けてもらい総本部に侵入。
内弟子から報告を受けて松井章圭は総本部に向かった。
インターホンを押すと大山智弥子が出てカギを開けてくれた。
中にいたのは2人のガードマンだけで、高木薫たちはいなかった。
後にガードマンを残し帰ったことについて高木薫は、
「自分が残れば会館は血の海になる」
といった。
たとえ口論でもいいから松井章圭と対峙していれば男は上がったかもしれないが説得力はなかった。
1995年4月1 4日、松井章圭と遺言書の証人たちが、「遺言書は有効」と東京高等裁判所に抗告。
1995年4月18日、
「郷田師範、とにかく4月26日の総裁の命日までに何とか和解しましょう」
廣重毅は郷田勇三と会い
・松井を館長と認める
・松井派に戻る人間の過去の言動はすべて不問にする
・増田章と三和純を支部長にする
と3つの和解案を出した。
「どう考えても三瓶と三好は不問にするわけにはいかないだろう」
「でも師範、こいつはよい、こいつはダメと線引きしてたらまとまるものもまとまりません。
どうか全員不問でお願いします」
「大体、若いやつを引っ張っていったのはお前だろう。
いまさら何いってるんだ」
郷田勇三は廣重毅を責めたが
・松井を館長と認める
・松井派に戻る人間の過去の言動はすべて不問にする
の2つの和解案を書いた手紙を支部長協議会派を含む全国の支部長に送った。
廣重毅は支部長協議会派にも和解を進言したが、
「廣重さん、遺言書が却下になって我々に有利に進んでいるのに、なぜこんな案を松井に出す必要があるんですか?」
(西田幸夫)
「勝手なことはしないでください」
(三瓶啓二)
「師範、みんなで頑張っていこうとしているときにこんな提案は裏切りですよ」
(緑健児)
と冷たく反対された。
それでも廣重毅は
「こんな争いを続けるのはよくない。
もう極真の看板を下ろそう」
と説得を続けたが
「そんなことをしたら自分たちが正統ではないとといっているようなものでしょう」
(三瓶啓二)
「そんなことしたら生徒が来なくなりますよ」
(前田政利、大阪府北支部長)
「師範、なにいってるんですか。
とんでもないですよ。
そんなバカみたいな話はもうやめてください」
(緑健児)
と厳しい言葉を浴びせられた。
その後、支部長協議会派は廣重毅を冷遇した。
「用事で遅れます」
と事前に報告し遅刻して会議に参加すると、以前は前の方にあった自分の席が用意されておらず、後ろの方に座ったが、全員に配られている書類を差し出してくれる人はいなかった。
 (2233285)

1995年4月23日、極真会館の入り口に張り紙がされた。
「お知らせ
故・大山倍達の1年祭を4/23(日)に行う予定と雑誌等で掲載しておりましたが、急遽、4/25(火)に変更になりました」
しかしその夜、遺族たちは
「1年祭には出席しない」
という内容の手紙を事務所の机の上に置いた。
郷田勇三が「すべての支部長に呼びかける」と全国の支部長に送った手紙の
・松井館長を除くすべてを白紙に戻し、みんなの合意で改めて人事を決定したい
という部分を問題視し、
「出席すれば松井さんを館長として容認することになってしまう」
というのが理由だった。
1995年4月24日、東京都豊橋区池袋のハナシンビルに郷田勇三の呼びかけに応じ、支部長たちが集結。
イザ、郷田勇三が進行しようとすると
「師範、もう話し合いの時期ではないでしょう」
と三瓶啓二が遮った。
「わかった。
じゃあ話し合いではなくこちらの話を聞きてほしい。
支部長たちは我々と支部長協議会、双方の話を聞いてそのあとで判断してくれればいい。
ただ聞く聞かないはお前たちの自由だ」
「それじゃ、みんな帰ろう」
三瓶啓二に促され大半の支部長は部屋を出ていき、残ったのは、中村誠やいったん館長解任に賛同した河岡博など十数名だった。
1995年4月25日13時、総本部2F道場で大山智弥子主催の故・大山倍達総裁の1年祭が執り行われた。
郷田勇三、盧山初雄、浜井識安、山田雅捻と中村誠、河岡博ら、昨日、会議場に残ったメンバー、磯部清次(ブラジル支部長)を始めとする海外の支部長たち、元極真の中村忠、加藤重夫、格闘家の前田日明、総本部道場と城西支部の分支部長、指導者、道場生らが参加した。
しかし松井章圭も主催者の大山智弥子もおらず、遺族からは大山恵喜(次女)だけ参加。
三瓶啓二ら支部長協議会派も高木薫ら遺族派もいなかった。
24日から大山智弥子と連絡が取れなくなった松井章圭は参加を自粛し事務所に待機し、仏教の焼香やキリスト教での献花にあたる榊の枝に白い紙(紙垂)をつけた玉串の奉奠のみ行った。
玉串奉奠が終わり斎主が去ると、大山恵喜(次女)がマイクを持った。
「遺言書却下による内部分裂の中で1年祭は3度行われる予定でした。
しかし松井さんたちと話し合った結果、松井さんが主催者を降りるということで大山智弥子の名前で執り行うことになりました。
でも郷田さんからの手紙をみると1年祭に出席することは松井政権を認めるととれる。
遺族は欠席することにしましたが、招待状は母の名で送っているため、私は非難を覚悟で出席しました」
「香典を松井さんに持ち逃げされる懸念があるため自ら受付に立つつもりでした」
式後、メトロポリタンホテルでレセプションが行われたが、遺族は1人も参加しなかった。
1995年4月25日、支部長協議会派が1年祭を行った。
それを認めない松井章圭、郷田勇三、盧山初雄、山田雅捻、浜井識安らは朝早くから総本部で待機。
11時、黄色のブレザーを着た支部長たちが続々と姿を現した。
「お前らふざけるな。
こっちは松井を外して譲歩したにも関わらず昨日は来なかったくせに、また1年祭をやるのか!!」
郷田勇三の怒声を3階で聞いた松井章圭はすぐに降りていった。
すると支部長たちの集中砲火を浴び、郷田勇三からも
「お前が来るとややこしいから上にいろ!!」
と大声で怒鳴られた。
その後、郷田勇三は用意してあった花を怒鳴りながら支部長たちに投げつけた。
対照的に盧山初雄は
「もっと気持ちを大きく持って」
「じっくり話し合おうじゃないか」
と笑顔で支部長たちに話しかけ、
「同じ釜の飯を食った仲じゃないか。
なあ、三瓶」
と穏やかな顔で三瓶啓二の肩をたたいた。
三瓶啓二は直立不動でなにもできなかった。
やがて郷田勇三も笑顔で長谷川一幸らに話しかけると他の支部長たちも笑顔になっていった。
13時30分、松井章圭、郷田勇三、盧山初雄、山田雅捻、浜井識安らが譲歩する形で支部長協議会派による1年祭が、予定より大幅に遅れて始まった。
なぜか正装ではなく、セーターにカーディガンという普段着の大山智弥子。
そして高木薫ら遺族派と西田幸夫、長谷川一幸、大石大吾、三瓶啓二、廣重毅、緑健児ら支部長協議会派の支部長たち。
八巻建志、数見肇、市村直樹など数名の選手。
そして前日の1年祭にも出席した海外の支部長たちが参列。
彼らは状況がよくわからないため遺族、松井章圭、支部長協議会派、どちらにもフェアに接した。
しかしブラジル支部の磯部清次は最初から松井章圭を支持し、支部長協議会派の1年祭にはいなかった。
1年祭で合流した遺族派と支部長協議会派は、毎年、夏に大阪で行われる全日本ウエイト制大会も合同で開くことを話し合い、全日本ウエイト制大会を仕切っていた津浦信彦に打診。
津浦信彦とその妻、大山留壹琴(長女)は、松井派、遺族派、支部長協議会派、いずれにも属さず独自の活動を続けていた。
大山留壹琴は、
「どんなに規模が小さくなっても父の言いつけを守り大阪府立体育館でウエイト制大会をやっていきたい」
と遺族派や支部長協議会派との合同開催を反対。
やがて遺族派と開催することは認めたが、支部長協議会派が入ってくることは許さなかった。
 (2233289)

1995年4月29日、埼玉県戸田市の戸田スポーツセンターで第1回全日本少年大会が行われた。
小学校1、2年生の部、3、4年生の部、5、6年生の部に分けて行われるこの大会は、少年部の育成に力を入れていた盧山初雄が年々、大会の規模を拡大していき、そして初めての全国大会だった。
しかし支部長協議会に属する支部は、急遽、参加を取りやめた。
大会申し込みは分裂騒動が激化する前で、この試合に向けて純粋に努力し続けてきた子供たちもいたが、わけのわからない大人の騒動の犠牲になった。
「本当にこれでいいのか?」
支部長、指導者、選手、道場生、少年部の保護者など極真関係者はもちろん格闘技ファンや一般の人も、多くの人がそう思った。
1995年5月、反松井派を見切って、松井章圭の極真会館に戻る者が出てきた。
和歌山県支部の指導員であり総本部内弟子出身の北本久也は、支部長の黒岡八寿が支部長協議会派だったが
「納得できない」
と単身、松井派へ復帰。
同様に大石大吾の下で指導員をしていた石黒康之も松井派を選んだ。
その後、滋賀県支部長の河西康宏も松井派復帰を希望。
「長谷場譲や田畑繁たちも戻りたいといっています」
と訴えたが、2人は支部長協議会派に残った。
松井章圭は自ら強引な勧誘はしなかった。
「自分はどうしたらいいでしょうか」
と相談されると
「君の考えた通りにすればいい」
と答えた。
(大義はこちらにある。
甘い言葉や復帰の条件などで釣っても裏切る人間はまた裏切る。
去る者は追わず、戻ってくる者は拒まずという方針は崩さない)
 (2233288)

松井章圭は東京の料亭で緑健児と会った。
「なぜ緑君は僕についていけないと思ったの?」
「理由はいろいろありますけど、八巻の100人組手とか・・・」
「八巻君の100人組手がなに?」
「1人1分30秒といっておきながら2分にして八巻を潰そうとしたじゃないですか」
「そんなことしてないよ。
だいたい日本のエースをなんで僕が潰す必要があるの。
何のメリットもないでしょう」
「でもそれだけじゃないですから・・・
許永中から流れてきたアングラマネーが極真の運営に使われているとか、山口組や韓国ルートの話とかいろいろよくない話も聞こえてきます」
「許永中先生については個人的に恩義を感じているのは事実だよ。
でも僕より大山総裁が先に許永中先生と知り合って大阪の本部事務所や津浦さんの自宅などを無償で貸してもらっていた。
それだけ極真に貢献してくれた人であることは緑君も知っているでしょう?
それに僕が許永中先生に出会ったとき、経済犯罪に手を染めているなんて知らなかった。
知っていれば深い付き合いなんてできないよ。
許永中先生にはいろいろとお世話になり恩義を感じるようになった後、マスコミや周辺の人たちからイトマン事件の話を聞かされた。
だからといって恩ある人を簡単に犯罪者扱いして縁を切れないでしょう。
僕は人間として許永中先生と絶縁するようなことはできない。
罪は積み、恩は恩、それが筋だと思う。
それにアングラマネーっていうけど表に出せないからアングラマネーっていうのであって、それを公的な組織である極真会館の運営に使ったら大変なことになるし、そんな話、何の証拠もないし証人もいない。
ただの噂に過ぎないじゃないか。
断言するけどそんなことは絶対にしていない。
山口についても総裁の遺言書の立会人になった黒澤明さんとか黒澤さんの親分だった柳川次郎さんとか、2人とも元々あちらの人だというのはみんな知っていることじゃないか。
総裁が生きていた頃、誰1人、柳川さんが向こうの人だとか文句を口にした人はいないだろう?
総裁が親しくしていた人たちを僕の代になったからといってもう付き合えませんとはいえないでしょう。
韓国もそうだよ。
韓国ルートだなんて、まるで闇組織みたいにいうけど、それも悪意からくる憶測以外の何でもない。
あえて韓国ルートというなら、ずっと極真や大山総裁を応援してくれている人たちとの交友関係であって、僕の代から始まったことじゃない。
何もかも悪意ある噂じゃないか。
もし確証があるなら教えてほしいくらいだよ」
「そうだったんですか。
それじゃ自分が誤解していたみたいです」
「誤解が解けたなら支部長協議会派にいる必要はないんじゃない?
向こうの方が知り合いが多いだろうしこっちに来るとなると人脈も断ち切る覚悟が必要だからね。
それが難しいなら緑君は独立して緑道場でもつくって、あくまで中立的な立場で向こうともこっちとも付き合えばいいんじゃないか?」
「いえ、自分はそんな大それたことは考えていません。
自分は新体制で頑張ります」
「そうか。
まあどこにつこうがいいけどね。
お互いにえげつないことをするのはよそうな。
ところで緑君はいつから僕に反感を持ち始めたの?」
「アフリカ遠征からです」
「アフリカ?
だってあのときみんなで水に流そうっていって終わったはずじゃないか。
僕はそう理解していたけど」
結局、2人が昔のような関係に戻ることはなかった。
 (2233437)

1995年5月9日、松井章圭、山田雅捻がヨーロッパ遠征に出発。
国際秘書で通訳の五来克仁と、まず共にロシア、イギリスの各支部を訪問。
両国は松井章圭を2代目館長と認めていた。
その頃、日本では月刊「噂の真相」に
「大山倍達死去で揺れる極真会館をめぐるすさまじき暗闘。
2代目を名乗る自称、文鮮明(統一協会の教祖)の血縁者や、なんとあの許永中まで登場・・・」
という記事が掲載された。
この中で松井章圭は文鮮明(統一協会の教祖)の血縁者であり信者であるとされた。
ずいぶん前から大山倍達が統一協会の信者であるという噂もあった。
統一協会の世界日報は、古くからの全日本大会のスポンサーだった。
第3回世界大会では、日本統一協全会長:久保木脩己が特別相談役として副委貝長の席に座っていた。
大山倍達と統一協会の繁がりは、第1回全日本大会(1969年)より少し前から始まった。
橋渡し役となったのは、極真を離れアメリカでUS大山を興した大山茂、泰彦兄弟。
大山兄弟の父親が日本統一協会の大物で、日本におけるコネクションが欲しかった統一協会とスポンサー不足に悩んでいた極真会と利害が一致し協力関係が生まれた。
「確かに主人は統一協全に何人か友人がいました。
久保木さんがよくうちに訪ねてきた時期もあります。
まあ、どっちが呼んでたのかは知りませんけどね。
最初はおだてられて協力してたんじゃないですかね。
でも主人が信者でなかったことは断言できますね。
もし本当に主人が信者だったのなら協会からお金を借りるなりして新しい本部の建物だってもっと早く建っていたはずですよ。
それに主人がお世話になっていてこんなことをいうのも何ですが、うちは私も娘もみんな統一協会が嫌いでしたから。何年か前に協会の方が会館に来て、主人に壷を持たせて写真を撮っていったことがあったんですよ。
そしたらその写真が霊感商法みたいなことをやっている会社の広告に使われてしまって。
『大山総裁は統一協会の信者なんですか』という電話が会館に何本もかかってきて。
あのときは本当に怒ってらっしゃいましたよ。
そんなこともあって、ここ最近はあまり協会の方とのお付き合いも少なくなっていたようてすね」
(大山智弥子)
 (2233290)


1995年5月26日、松井章圭たちがルーマニア入り。
ボビー・ロー(ハワイ支部長、国際連盟委員長)、ルック・ホランダー(オランダ支部長、国際連盟相談役)、アントニオ・ピネロ(スペイン支部長、ヨーロッパ連盟委員長)、ジャック・サンダレス(国際連盟相談役)と会食。
そこにルーマニア支部の道場生がきて、翌日に行われるヨーロッパ大会に出場する選手が泊っているホテルで、支部長協議会派の西田幸夫、三瓶啓二、緑健児、増田章、七戸康博、七戸ベラ(七戸康博の妻)、柚井ウルリカ(東京都立川支部責任者である柚井知志の妻)がベラの翻訳つき「噂の真相」の記事のコピーを配っていると報告した。
「何か起こっても私が対処しますので安心してください」
(松井章圭はそういって、統一教会の会員でないこと、極真を離れていた時期にジャパニーズマフィアに世話になった経緯を説明した。
「ヨーロッパはマツイ館長を支持する」
(アントニオ・ピネロ)
「私もヨーロッパやアメリカでは名の知れたマフィアだ。
それを知ってマス大山は私を認めてくれた。
マフィアだろうと公私を分ければノープロブレムだ」
(ジャック・サンダレス)
1995年5月27日、ヨーロッパ大会が開かれた。
秋の世界大会の選考も兼ねており、満員の会場で白熱した戦いが繰り広げられた。
支部長協議会派は、料金を払って入場し、昨夜同様、記事のコピーを配った。
5月28日、大会翌日、ヨーロッパ支部長会議が開かれた。
1995年5月、全ヨーロッパ大会の会場が開かれた。
会議に参加を要請された松井章圭は
「まずはヨーロッパの支部長同士で態度を決めるべき」
といったが、ルック・ホランダーは
「まず松井館長が日本の状況を説明すべき」
と会議の開催前に松井章圭に発言を場を設けた。
松井章圭は日本国内の状況と配られた「噂の真相」の記事について15分間、説明を行った後、頭を下げて退場した。
2階の会議場を出て1階のロビーへ階段を下りていくと、すぐに西田幸夫、三瓶啓二、緑健児、増田章、七戸康博、七戸ベラ、柚井ウルリカが駆け上がってきた。
声をかけようとする松井章圭を無視し会議所に入っていった。
そして5分後、ソファーに座る松井章圭を無視して支部長協議会派はホテルを出て行った。
会議場に入った西田幸夫は、会議への参加を要求したが、アントニオ・ピネロは
「オフィシャルなメンバーではない」
とシャットアウトした。
「彼らはここまで来たが150万円を捨てに来たようなものだ」
(ジャック・サンダレス)
しかしアントニオ・ピネロは、この後、数名の支部長たちと支部長協議会派の話を聞くことにした。
その中に日本の総本部で内弟子の経験もあるハワード・コリンズ(スウェーデン支部長)もいた。
「松井館長は質問を一切受け付けてくれなかった。
一方的に説明し10分か15分で退席してしまった。
だが支部長協議会派はキチンと説明してくれたし我々の質問にも答えてくれた」
こうしてハワード・コリンズは、外国人支部長として初めて支部長協議会派を支持した。
「ヨーロッパは2/3は味方についた」
(三瓶啓二)
「私の感覚ではヨーロッパの7割は我々と一緒にやりたいといっている」
(西田幸夫)
ヨーロッパで自信をつけた支部長協議会派は、帰国後、「ワールド空手」のぴいぷる社を訪れ、
「報道や編集に明らかに偏りがあり、編集方針に作為的な意図が推察されます。
極真会館監修となっている以上、松井派、支部長協議会派、遺族派、公平に扱うべきです」
と訴えた。
編集長の井上良一は
「機関紙とはいえ言論・出版の自由を脅かすものだ」
と反発。
また支部長協議会派は、自派の世界大会の開催について記者会見を開いた。
すると記者から質問が飛んだ。
「松井さんたちと統一の世界大会を開いたらどうでしょうか?」
「そんな必要はない」
(西田幸夫)
「昨年の全日本大会で決定した世界大会出場選手の8名はすべてこちらに所属しています。
松井君のほうには選手がいませんから、どっちみち向こうは世界大会を開けませんよ」
(三瓶啓二)
しかし8名のうち、城南支部の3名が松井派の大会出場を表明することになる。
 (2233438)

支部長協議会派に見切りをつけた廣重毅は、郷田勇三に
「戻りたいんですけど人質をとられているので戻れないんです」
と相談。
人質とは世界大会での活躍が期待されている八巻建志や数見肇を含む弟子たちのことだったが郷田勇三は
「俺が何とかする」
と請け負った。
1995年6月10日、松井章圭、郷田勇三、廣重毅が会って話し合い復帰が決まった。
「松井側に戻ろうと思う」
復帰後、廣重毅はすぐに分支部長を集めていった。
「松井館長の問題をアレコレ挙げて支部長協議会を選んだのは師範じゃないですか」
「何で戻るんですか」
大多数が反対したが、突然、岩崎達也が
「自分は全日本ウエイト制に出場したいです」
といい出し、八巻建志と数見肇も
「世界大会に出たいです」
と続いた。
彼らが松井派の試合に出たいといった理由はフランシスコ・フィリョ。
松井章圭を支持するブラジル支部の磯部清次の弟子であるフランシスコ・フィリョは「史上最強の外人」と呼ばれ、これまで世界大会は日本人が優勝してきたが、「空手母国の最大の危機」といわれていた。
支部長協議会派に残りたい弟子と松井派に戻りたい弟子に挟まれ困る廣重毅に緑健児がいった。
「師範、戻らないでください。
せめて中立という立場でお願いします」
こうして廣重毅は中立を宣言した。
中立とは、松井派、支部長協議会派、どちらともつき合うという意味だった。
しかしこれまで通り反松井的な行動をとり続ける分支部長もいて、城南支部は分裂状態になった。
 (2233439)

1995年6月12日、郷田勇三が支部長協議会派を含む全国の支部長に、
「22日に総本部集合。
来なければ除名」
という勧告書を送った。
1995年6月22日14時、東京都豊島区の東洋モーターズコーポレーションで松井派と支部長協議会派の話し合いが行われた。
「松井が降りないなら話すことはない」
(三瓶啓二)
「俺はお前の話し方も歩き方も全部嫌いなんだよ」
(三好一男)
話は折り合わず、同席していた俳優の待田京介が立ち上がった。
「先輩として一言いいたい」
終戦直後の館山に住んでいた大山倍達に待田京介の親が頼み弟子入り。
それまで大山倍達は弟子をとったことがなかったので1番弟子となり館山で稽古をつけられた。
大山倍達が東京に移ると追いかけて大山道場で稽古を続けた。
しかし三瓶啓二は
「先輩後輩は関係ありません」
と一蹴。
結局、20分で話し合いは終わった。
 (2233440)

以後、松井章圭は支部長協議会派との和解を断念。
新たな支部の設立
統括本部長となった山田雅捻は、数で勝る反松井派への対策として「ランチェスター理論」を説明した。
「第2次世界大戦のときにイギリス空軍がドイツ空軍と戦うときに編み出したのがランチェスター理論なんだけど、これが極真を出ていった連中との戦いに有効だと思う。
イギリスが20機でドイツ機10機と戦ったとすると、敵機を全滅させたときの損害は5機で済むという計画が成り立つという理論なんだ。
もし10機対10機で戦ったとすると戦闘機の性能やパイロットの技術に差があったとしても双方が全滅ということになりかねないというんだ。
つまり相手が1支部に5つの道場を持っているなら、極真会館は10の道場を、若い指導員を道場主に指名して開設するという戦略でいけば、反松井派の道場は脅威でなくなる」
以後、極真会館は、元支部長のテリトリー内に次々と道場を開設し若い指導者を送り込んだ。
ランチェスター理論は、イギリスの航空工学者F.W.ランチェスターが提唱した戦闘の法則だが、経済問題にもでも応用されている。
1970年代前半にオイルショックが起こり日本はそれまでの高度経済成長期から一転して不況となった。
そのときそれまでのスピード勝負、体力勝負ではなく、科学的・論理的な経営戦略・営業戦略が求められ、多くの企業がランチェスター理論を取り入れた。
今日でもランチェスター理論は、競争戦略・販売戦略のバイブルといわれている。
この後、松井章圭は、北本久也を和歌山県支部長に、石黒康之を静岡県西遠支部長にした。
黒澤浩樹も道新しく道場を出すことをすすめた。
「黒澤、お前、品川に道場出せ」
(山田雅稔)
「いいんですか」
「もう関係ないから道場出せ。
いいよな、館長」
松井章圭も請け負った。
「いや、もうどんどん出したらいいんですよ」
黒澤浩樹は、第6回世界大会が終わったら実家の駐車場を道場にすることを考えた。
黒澤浩樹の話を両親は快諾。
その土地は、道路建設のために東京都に売却する予定だったが、数千万円という多額の税金を払って土地をキープした。
 (2233441)

1995年6月18日、遺族派が大阪府立体育館で第12回全日本ウエイト制大会を開催。
館長の大山智弥子は体調不良で欠席。
大山留壹琴(長女)が代わりに挨拶に、高木薫、手塚暢人、安済友吉、小野寺勝美、林栄次郎らが審判に立ったが出場選手は52名と小さな大会だった。
1995年6月24日、25日、松井派が有明コロシアムで第12回全日本ウエイト制大会を開催。
全日本ウエイト制大会は大阪府立体育館で開催されるのが恒例だったが、大山留壹琴(長女)の夫である津浦信彦が押さえていたため使用できなかった。
軽量級は成嶋竜、中量級は瀬戸口雅昭、重量級は城南支部の岩崎達也が優勝し、世界大会出場を決めた。
黒澤浩樹も3位になり、秋の世界大会出場を決めた。
会場には八巻建志や数見肇が応援に駆けつけていた。
1995年6月26日、全日本ウエイト制大会翌日松井章圭は全国支部長会議を行った。
「今日、15名の新支部長を承認しました。
支部長協議会派に属する方々と軋轢が生じる支部もあるかもしれませんが、大山総裁の意志を継いでがんばってください」
(松井章圭)
「廣重支部長は支部長協議会派に脱退届を出しました。
八巻君と数見君をこちらの世界大会に出場させたいという意向を受けています」
(郷田勇三)
「城南支部は支部長協議会派を脱退し中立の立場をとる意思表示をされたようです。
我々は一貫した姿勢を通す必要があると思います。
門戸を閉ざさず選手の出場を受け入れる方向で対応しようと思っています」
(松井章圭)
1995年7月、学習研究社が機関紙「極真空手」の第1号を出版。
松井派の機関紙だったが、主に大会やイベントの情報を提供する「ワールド空手」と違い、「極真空手」の理念や技術、選手の人生、稽古、トレーニング法などを紹介した。
しかしこの後、この松井派の2冊目の機関紙は、大山留壹琴(長女)の攻撃されされる。

「極真分裂.03 他流試合」に続きます。
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  • ニックネーム 2020/10/31 14:05

    極真カラテは大山ファンクラブであって格闘の「術」ではなかったのかな…
    悲しいなぁ…

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あくまで最強の男を目指し、「闘志天翔」というテーマと、「1位.夢、2位.健康、3位.お金」という人生価値観を実践し続ける男。 空手を武器に総合格闘技のリングにも立った空手バカ一代男は、90年代の格闘技ブームの立役者となった。 批判されることもあるけど、ほんとうに強いし、ほんとうにナイスガイ。 間違いなく格闘技ヒーローである。
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角田信朗  冷徹なリングでモロに感情を露出させる愛と涙と感動のファイター!

角田信朗 冷徹なリングでモロに感情を露出させる愛と涙と感動のファイター!

K-1や空手のトーナメントでの優勝経験ナシ。 なのに正道会館の最高師範代であり、メディアへの露出度も多い。 特筆すべきは彼の試合は、その人間性や感情があふれ出てしまうこと。 これは選手としても、レフリーとしてもそうで、インテリとむき出しの感情を併せ持つ愛と涙と感動の浪花男なのである。 最近、ダウンタウンの松本人志との騒動が話題になり、角田信朗の人間性を批判する人もいるが、私はその批判している人の人間性を疑っています。
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