あの張本勲と首位打者争いを行った男。谷沢健一
谷沢健一の獲得タイトルや主な表彰と記録
首位打者:2回 (1976年、1980年)
最多出塁数:1回 (1984年)
最多安打(当時連盟表彰なし):1回 (1984年) ※1994年より表彰
新人王 (1970年)
ベストナイン:5回 (1976年、1980年、1982年~1984年)1976年は外野手、それ以外は一塁手として受賞
月間MVP:3回 (1980年4月、1982年4月、1984年5月)
カムバック賞:1回 (1980年)
オールスターゲーム出場:9回 (1970年 - 1973年、1976年、1980年、1981年、1983年 - 1984年)
4打数連続本塁打 (1981.9.20 - 9.21)
最多出塁数:1回 (1984年)
最多安打(当時連盟表彰なし):1回 (1984年) ※1994年より表彰
新人王 (1970年)
ベストナイン:5回 (1976年、1980年、1982年~1984年)1976年は外野手、それ以外は一塁手として受賞
月間MVP:3回 (1980年4月、1982年4月、1984年5月)
カムバック賞:1回 (1980年)
オールスターゲーム出場:9回 (1970年 - 1973年、1976年、1980年、1981年、1983年 - 1984年)
4打数連続本塁打 (1981.9.20 - 9.21)
谷沢健一のプレースタイル
via blogs.c.yimg.jp
本塁打や打点はあまり多い選手ではありませんでした。
あの巨人の10連覇を阻止したチームは中日でして、そのチームのリーグ優勝に大きく貢献し、7年目の1976年には、あの日本が誇る安打製造機、張本勲に驚異的な追い上げで逆転し、首位打者に輝いたことも有名な話である。
壁が高ければ高いほど、闘志がみなぎるタイプのようです。
カムバック賞を獲るほどの返り咲きを見せてくれたのも谷沢健一の不屈の闘志があればでしょう。
あの巨人の10連覇を阻止したチームは中日でして、そのチームのリーグ優勝に大きく貢献し、7年目の1976年には、あの日本が誇る安打製造機、張本勲に驚異的な追い上げで逆転し、首位打者に輝いたことも有名な話である。
壁が高ければ高いほど、闘志がみなぎるタイプのようです。
カムバック賞を獲るほどの返り咲きを見せてくれたのも谷沢健一の不屈の闘志があればでしょう。
谷沢健一の生い立ちとプロに入るまでの軌跡
千葉県の今の柏市に生まれ、当時の習志野高等学校で2年生でレギュラー。控えの投手にも選ばれる選手でした。
くしくも、甲子園には行けずに地方大会で涙をのんだ選手です。
ドラフトには選ばれず、一般入試で早稲田大学の文学部に入学。大学2年でレギュラー入りし、春季リーグで首位打者を獲るなどの活躍を見せ、東京6大学を代表する左の強打者として有名になる。
くしくも、甲子園には行けずに地方大会で涙をのんだ選手です。
ドラフトには選ばれず、一般入試で早稲田大学の文学部に入学。大学2年でレギュラー入りし、春季リーグで首位打者を獲るなどの活躍を見せ、東京6大学を代表する左の強打者として有名になる。
大学通算打率は.360を記録し、ベストナインにも6度選ばれるスター選手の一人だった。同期の荒川選手と二人で早稲田のON砲と呼ばれるほどの打者である。
そして、1969年のドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。その年の早稲田からは計7人がプロに入る結果となったプロ養成所のような早稲田野球部でした。
中日に入り、プロとしての活躍ぶり・・・
1年目からレフトのレギュラーとなり新人王に輝く。1973年からは主に一塁を守るようになった。巧打の中距離打者として活躍し、1974年の巨人のリーグ10連覇を阻止するチームのリーグ優勝に大きく貢献。
しかし、1978年頃から大学時代からの持病のアキレス腱痛が悪化しシーズン途中で二軍落ち。有効な治療法が無く選手生命が危ぶまれたが、酒マッサージの創始者の小山田秀雄に出会い、日本酒を患部に塗ってマッサージする療法に出会って治療を続け、ついには回復する(小山田はかつて黄金時代の西鉄ライオンズでトレーナー的な役割を担っていたことがあった)。ヤクルトが初優勝を決めた1978年10月4日の試合では9回に併殺打を打ちこの試合の最後の打者となっている。1979年9月23日対横浜大洋ホエールズ戦(ナゴヤ球場)の7回に代打で登場してファンの大声援を浴びヒットを放って谷沢健在をアピールした[4]。
中日谷沢健一のホームラン巨人の江川から - YouTube
ドラゴンズ4番が読売ジャイアンツの江川から同点本塁打。
via youtu.be
そして翌1980年には打率.369の高打率で2度目の首位打者、カムバック賞を受賞して見事復活を遂げた。ただしこの年チームは谷沢の活躍にもかかわらず最下位に低迷し勝率は.372だった。
その後1981年にはプロ野球タイ記録となる4打席連続本塁打[5]を放ち、1982年の優勝に4番として貢献。1984年には打率.329、本塁打34本、99打点を記録。1985年10月23日に対広島戦(広島市民球場)で2000本安打を達成し名球会入り(後に退会)。1986年シーズンオフ後に39歳で引退。
引退後の谷沢健一は、今もご存知の解説ぶり。
1987年から1993年までフジテレビ、ニッポン放送解説者、また1988年から1989年まではプロ野球ニュースの週末キャスターを務める。1994年から1995年の2年間、森祇晶監督、東尾修監督の下で西武ライオンズ二軍打撃コーチ、一軍打撃コーチを歴任。その後はフジテレビ・東海テレビ(J SPORTSで放映されるTHK制作の中継の解説も担当)・東海ラジオ解説者、東京中日スポーツ評論家となり現在に至る。
身長 179㎝、体重 75㎏
左投げ、左打ち
ポジション:一塁手、左翼手
中日ドラゴンズの主砲として17年間活躍し続けた日本球界が誇る中距離打者。日本タイ記録にもなる4打席連続本塁打を放つ名古屋の主砲は大人気のスター選手である。