東京オリンピック開会式 (1964年)
1964年の東京オリンピックは有色人種国家における史上初のオリンピックだった!!
’64東京オリンピックの聖火点灯式
1954年(昭和29年)に1960年(昭和35年)夏季大会開催地に立候補したが、翌1955年(昭和30年)の第50次IOC総会における投票でローマに敗れた。次に1964年(昭和39年)夏季大会開催地に立候補し、1959年(昭和34年)5月26日に西ドイツのミュンヘンにて開催された第55次IOC総会において欧米の3都市を破り開催地に選出された。
得票数は東京が過半数を超える34票、デトロイト10票、ウィーン9票、ブリュッセル5票だった。特に、総会での立候補趣意演説を行なった平沢和重(外交官)や、中南米諸国の支持を集めるために奔走したロサンゼルスの実業家、フレッド・イサム・ワダ(和田勇)、当時都議であった北島義彦、「日本メイズの父」といわれた八田一朗らの功績が大きかった。開催の決定した日本では「東京オリンピック組織委員会」が組織され、国家予算として国立競技場をはじめとした施設整備に約164億円、大会運営費94億円、選手強化費用23億円を計上した国家プロジェクトとなった。
これさえ読めば、あなたも体操競技が10倍楽しくなる”うんちく”!!
’64東京オリンピックで段違い平行棒の演技を行っているチャスラフスカ選手
現在、体操競技の種目は、男子がゆか、あん馬、つり輪、跳馬、平行棒、鉄棒の6つ。女子は跳馬、段違い平行棒、平均台、ゆかの4つである。これに加え、男子6種目、女子4種目の合計点で競う個人総合、国別チームで競い合う団体がある。オリンピックでは1996年のアトランタ大会までは、定められたわざを演技構成に入れねばならない規定演技と、自由に自分の得意なわざを演技構成に入れられる自由演技の2回演技を行っていたが、2000年シドニー大会以降は規定演技が廃止され、自由演技だけで競技されている。また、オリンピックの体操競技に女子が参加したのは、エキジビションではありますが1928年のアムステルダム大会からです。
日本の選手がオリンピックに登場したのは、1932年のロサンゼルス大会が最初だった。この時の成績は、団体5チーム中5位で、世界との差をまざまざと見せつけられた大会だった。ところが、1960年のローマ大会で男子団体優勝を達成して以降、1964年東京大会、1968年メキシコシティー大会、1972年ミュンヘン大会、1976年モントリオール大会と、オリンピック5連覇を達成し、体操王国ニッポンの名を世界にとどろかせ、「体操ニッポン」「お家芸」と言われるまでになった。女子も1964年東京大会で団体銅メダルを獲得した。
元来、体操では、競技者が体を回転させたり、ひねったりするので、長身だと回転力が落ちるため、小柄な選手の方が総じて有利なスポーツであると言われる。そのため、男子は160cm台、女子は140cm台の選手も多い。世界的に主力選手が10代中心と低年齢化の進んだ女子においては、第二次性徴の発現とともに体格が大きく変わってしまい、選手としての能力面で旨みのある時期が終わってしまう等の理由から、身体が成長する前に年齢による出場資格の下限がある上位の国際大会に出場させるために年齢を詐称させるという問題が存在し、たびたび問題ともなっている。
東京体育館
東京オリンピックにおける体操競技は、1964年10月18日から23日までの日程で東京体育館にて開催された。
ちなみに、2020年の東京オリンピック時には、卓球が開催される予定です。では、体操競技はどこか? 答えは、有明体操競技場になるという。
チャスラフスカ選手の祖国、チェコスロバキアってどこ??
ヨーロッパ中央部の地図(緑色の部分がチェコスロバキア)
現在のチェコ共和国及びスロバキア共和国により構成されていた。これはトマーシュ・マサリクやエドヴァルド・ベネシュが唱えた、チェコ人とスロバキア人がひとつの国を形成するべきであるというチェコスロバキア主義(en:Czechoslovakism)に基づくものである。建国当初には現在のウクライナの一部であるカルパティア・ルテニアも領域に加えられていた。首都は現在のチェコ首都であるプラハであり、国旗は現在のチェコ共和国と同じものが使用されていた。
1948年からはチェコスロバキア共産党の事実上の一党独裁制によるソ連型社会主義国となり、1960年から1989年まで、国名は「チェコスロバキア社会主義共和国」(チェコ語・スロバキア語: Československá socialistická republika)であった。
チェコスロバキア選手のオリンピック参加は日本より早かった!!
チェコスロバキアの国旗
チェコスロヴァキアの女子体操は、1936年ベルリン五輪で団体銀メダルを、1948年ロンドン五輪で団体金メダルを獲得するなど強豪国として知られていましたが、チャスラフスカは、その中心選手であったエヴァ・サボコワに見いだされ、16歳の時から本格的な体操のトレーニングを開始。1960年、18歳の時に、ローマ五輪に出場しました。このときは、個人総合では8位に終わったものの、チェコスロヴァキアは団体で銀メダルを獲得しています。
ちなみに、日本が初めてオリンピックに参加したのは、1912年のストックホルム大会になる。
この国旗の意味は、白は清潔を、青は空を、赤は自由の為に流された血を表わしている。 また、白はモラビア地方を、青はスロバキア地方を、赤はボヘミア地方を表わしているとも言われる。
平均台でポーズするチャスラフスカ選手
しかし、ガラス工芸など工業製品の輸出国でもあったチェコは、早くから民主化が進んでおり、音楽、文学、美術などの分野でも優れた人材が多く貧しい農業国が多い東欧諸国の中では異色の存在であった。
彼女の父親はもともと商売人だったが、収入はそう多くもなく、サッカーのゴールキーパーとしても活躍するスポーツマンだったそうだ。そのため、3人姉妹と弟は幼い頃からスポーツに親しみ、ベラはフィギュアスケートとバレエを並行して始めた後、体操と出会うことになる。
当時、チェコの女子体操はベルリン・オリンピックで団体銀メダルを獲得。1948年のロンドン・オリンピックでは団体で金メダルを獲得する黄金時代でした。その中心メンバーだったエヴァ・サボコワが、テレビのクリスマス番組に出演した際、後ろで体操する子供たちの中にいたベラに注目。彼女に声をかけました。
「あなたには素質があるわ。私たちと一緒に体操をやってみない?」と勧誘した。14歳のベラは世界最高峰の選手に認められて、体操の道へと進むことになったのでだった。それから2年後の1960年、18歳になった彼女はローマ・オリンピックに出場。個人総合では8位に終わったものの、チェコ・チームは団体で銀メダルを獲得しました。
共産圏のスポーツ選手は国から給料をもらうある意味プロ選手であってアマチュア扱いするのはおかしいのではないか?そう思っている方は多いでしょう。しかし、ほとんどの共産主義国のスポーツ選手たちは、国から支給されるお金だけでは生活できず、ほかに仕事を持っている場合が多かったのが現実だったようです。チェコにおいても最も優遇されていたはずの体操競技でも、その状況は変わらず、ベラはタイプライターと速記の資格を取得し、体育協会で仕事をすることで何とかか選手生活を続けていたようだ。彼女たちは決して仕事として体操をやっていたわけではなく、好きだからこそやっていたのだ。
Věra Čáslavská FALL TOKYO 1964 Uneven bars Individual (Amateur Footage)
日本における彼女の人気はこの時に定着することになった。彼女の試合にのぞむ姿勢や立ち居振る舞いのすべてが優雅で美しく、その礼儀正しい行動は日本人のメンタリティーにあっていたようです。それに何と言っても当時のスポーツ女子では考えられない程に美貌があり、まるでどこかの女優が演じているような趣ががあった。
TOKYO 1964 Larissa Latynina Uneven bars Individual (Amateur Footage)
ラリサ・ラチニナ(ロシア語: Лари́са Семёновна Латы́нина[1]、1934年12月27日 - )は、ソビエト連邦(現ウクライナ)出身の体操選手。
最初はバレエをしていたが、振付師が引越してしまったため体操に転向した。1954年の世界選手権で19歳で国際大会デビューし、団体で金メダルを獲得。1956年メルボルン、1960年ローマ、1964年東京と、3度の夏季オリンピックに出場。金メダル9個、銀メダル5個、銅メダル4個を獲得した。
金メダル9個は水泳のマイケル・フェルプスの23個に次ぎ、陸上のパーヴォ・ヌルミ、水泳のマーク・スピッツ、陸上のカール・ルイス、陸上のウサイン・ボルトと並ぶ2位タイ記録。
1966年世界選手権後に引退し、1977年までソ連ナショナルチームのコーチを務めた。1998年に国際体操殿堂入りを果たした。
Věra Čáslavská TOKYO 1964 Balance beam Team (AMATEUR FOOTAGE)
それは、彼女たちの母国チェコにソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍が突然侵攻してきたのだ。(ソ連、ポーランド、ハンガリー、ブルガリア、東ドイツ)
いったいなぜ、そんなことになったのだろうか?
キーワードは”プラハの春”!!
”プラハの春”とワルシャワ条約機構軍の侵攻とは??
ワルシャワ条約機構軍が侵攻して来た戦車の前で抗議するプラハの一般市民
スターリン主義者でもあったチェコの指導者アントニーン・ノヴォトニーは、1960年に国名を「チェコスロバキア社会主義共和国」に改め、ソ連を模範として計画経済、農業の集団化などの政策を進めたが、失敗だったことが明白になっていた。工業においては、他の共産圏の国に比べ高い工業力や美術的センスを持っていたのに、そのような優秀な才能は生かされなくなって行き、農業も輸出国としての力があったにも関わらず、集団化によりその効率が落ち、輸入国へと転落してしまったのです。
当然、チェコ国民はソ連寄りの共産党に対する批判をどんどん強めるようになり、共産党内部の改革派が力をつけ、その中心人物アレクサンデル・ドゥプチェクが共産党の第一書記に選ばれることになった。こうしてチェコ共産党の指導部は、政策の自由化を推し進め始めたのだ。市場経済の導入、西側からの技術援助の受け入れ、スターリンによる粛清犠牲者の復権、検閲の廃止、公安警察の縮小、西側への旅行の自由化、言論・集会の自由の保障などが、改革のテーマとして打ち出されたのだ。
その改革を推し進めるために政府は、「二千語宣言」と呼ばれる共同声明を発表し、それには3万人もの人々が署名を行い、支持表明を行った。もちろんその署名者中には、ヘルシンキ・オリンピックで5、000m、10、000m、マラソンで金メダルを獲得した「人間機関車」エミール・ザトペックやチャスラフスカもいたのだ。
侵攻して来た戦車に抗議文を貼り付けるプラハの一般市民
この後、ソ連はチェコ政府の首脳陣を次々に解任し、傀儡政権を作り上げた。1969年1月15日には、そうしたソ連の占領に抗議するため、カレル大学の学生ヤン・パラフがプラハ中心部のヴァーツラフ広場で焼身自殺するという事件も起きてしまったのだ。
1968年メキシコオリンピックに出場が危ぶまれる!!
チャスラフスカも悩んでいました!!
彼女はその後12月に本人も大好きだった日本を訪れ、「中日カップ チェコ日本選抜体操大会」に出場。そして、その演技が彼女にとって最後の演技となった。この大会を終えた彼女はこうメッセージを残している。
「人々は誰でも最後が美しくあることを望みます。私は愛する日本の人々に、私の最後の演技を見ていただきたかった。私はそれをなすことができた。全てのものは生命がある。スポーツも同じだと思う。体操選手としてのベラ・チャスラフスカはここに生命を終えたのです。」
その後、故国に帰国した彼女を待っていたのは、あまりに理不尽な運命だった。「二千語宣言」に署名した政治家や有名人が、共産党指導部による署名撤回要求を受けて、次々に転向する中、彼女は署名取り消しを頑なに拒否し続けた。軍人だった夫はそのために軍隊を追われることになり、彼女の結婚生活は破綻してしまうのであった。