しばしの春の訪れ!!
獲得したメダルを披露し、はにかむチャスラフスカ
この改革により、かつて「二千語宣言」に署名をしたために、それぞれの地位を追われた人々に20年ぶりに復帰の機会が訪れた。新たなチェコの指導者に選ばれたのも、彼女と同じように国内に残る道を選んだ劇作家ヴァーツラフ・ハヴェルでした。
1989年11月24日の夜、ヴァーツラフ広場に面したビルのバルコニーには、そうした英雄たちが久しぶりに顔をそろえた。「プラハの春」の時の共産党第一書記アレクサンデル・ドゥプチェク、新指導者となったヴァーツラフ・ハヴェル、歌手のマルタ・クビシュヴァ(「ヘイ・ジュード」の歌詞を変えて歌い民主化を支持し大ヒット)、テレビ・キャスターだったカミラ・モウチコワ、そしてベラ・チャスラフスカ。
チャスラフスカもまた、ついに体操協会に復帰し、国際大会の審判など、名誉回復がなされたのだった。
悲劇が再び襲う!!
他界する直前のチャスラフスカ
2010年、日本国の秋の叙勲(外国人叙勲)にて旭日中綬章を受章している。他界する直前の取材で、「私は何か行動しようとするとき、日本人だったらどうするか、日本人にどう思われるか、とよく考えるのです。私は自分が想像する日本人の心を鏡にしているのです」と。何とも頭の下がる思いだ。
1年4カ月に及ぶがん闘病の末、「私は何か行動しようとするとき、日本人だったらどうするか、日本人にどう思われるか、とよく考えるのです。私は自分が想像する日本人の心を鏡にしているのです」。私は思わず背筋を正し、彼女と接してきた日本人たちに感謝した。そして、日本人の心をここまで深く理解し、半世紀も愛し続けてくれた彼女の心にも敬意を表した。
1年4カ月に及ぶがん闘病の末、2016年8月30日、チャスラフスカは天に召された。74歳。彼女こそ、東京五輪のレガシーそのものだった。
なぜ、何も悪いことをしていないのに故郷を捨てなければならないのか?彼女はこの当たり前のことにこだわり続けたのだった。彼女の後に登場したコマネチが、祖国ルーマニアの崩壊の際、すぐに国を捨て海外で生きる道を選択したのとは対照的な話しだ。ただ、私にはどちらが正しいのか、間違っているのか?答えることはできないし、また、しないのが正論であろうと思う。
彼女と同じように国内で生きる道を選択した人々は、みな屈辱的な人生を歩むことを余儀なくされたが、そうした苦難の人生を歩んだ人々に光が当たる時が訪れるものだ。