『かわいそうなぞう』(土家由岐雄)
『少年の日の思い出』(ヘルマン・ヘッセ)
『少年の日の思い出』(ヘルマン・ヘッセ)
主人公の「僕」は、幼いころ蝶・蛾集めに夢中になっていた。最初は、はやりで始めた蝶・蛾集めだったが、「僕」は時間も忘れるほど夢中になっていた。
隣に住んでいる「エーミール」は、非の打ちどころのない悪徳を持っていた。彼は「僕」が捕まえた珍しい蝶(コムラサキ)を見るなり、20ペニヒと値踏みした上、様々な難癖を付け始めた。
そして「僕」はもう二度と「エーミール」に蝶を見せないと決めた。 少年たちが大きくなったある日、エーミールは珍しい蛾(クジャクヤママユ)をさなぎからかえした、といううわさが広まった。
「僕」はその蛾が見たくて彼の家を訪ねたが留守だったので、クジャクヤママユを一目見ようと彼の部屋に入り、その美しさゆえに盗みを犯してしまった。
だが、罪悪感と焦りで蛾をつぶしてしまった。すまなく思い、彼に謝りに行くが、怒りもせず軽蔑的な眼差しで冷たくあしらうだけだった。そして「僕」は収集した蛾や蝶をすべてつぶすのだった。
(出典:Wikipedia「少年の日の思い出」)
「そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな」
「そんなやつ」。私なりに解釈すれば、蝶の持つ美しさを微塵も理解することができず、嫉妬から人の部屋に忍び込んで、蝶を盗んで潰した下劣きわまりない人間、というところでしょうか。
少年は蝶の美しさをよく理解していました。その美しさに魅入られていたからこそ、部屋に忍び込んでしまったのです。嫉妬して蝶を盗んだのではなく、美しい蝶に思わず手が伸びてしまったのです。
ですが、そんな言い訳はなんの意味もありません。蝶を盗んだ瞬間、彼はエーミールのいうような「そんなやつ」になってしまいました。蝶の美しさとは全く持って正反対の、「醜い存在」に彼は突き落とされてしまいました。
語の最後、少年はあんなに魅了され、大切にしていた蝶のコレクションを粉々に押しつぶしてしまいました。どうして蝶をつぶしたのか、ここも考えてみるところです。
少年にとって、蝶は美しい存在ではなく、自らの醜さを映す存在に変わってしまったのでしょうか。
醜い存在に堕ちてしまった少年の瞳は、もう蝶を美しいものとして捉えなくなったのでしょうか。
自分が醜い存在になってしまったから、もう美しい蝶を所有している資格はないと思ったのでしょうか。
いろいろな解釈ができる、秀逸なエンドですね。少年はただ美しいものに魅入られ、夢中になって追いかけていただけでした。それなのに、どうしてこんなことになったのでしょう。周りのことが一切見えなくなる青春は、例えるなら長い長い夢のようなものです。その夢から覚めるというのは、人間にとって一番残酷な瞬間なのかもしれません。
『夏の葬列』(山川 方夫)
『夏の葬列』(山川 方夫)
どんでん返しのある作品です。
子供の頃の話。戦時中に疎開先で飛行機からの一斉掃射にあう。一緒にいた白いワンピースの女の子を、目立つからといって突き飛ばす。その子は大怪我を負って運ばれる。自分が殺したと負い目に思う。
しかし大人になって久しぶりに疎開先を訪ねると、成長した女の子そっくりの写真を掲げた葬列に出会う。
自分は殺してなかったのだと喜ぶのだが、よくよく話を聞くと、葬式は女の子のお母さんで、女の子が死んだために気が触れて頭がおかしくなっていたのだという。そしてついに川へ飛び込んで死んだという。
女の子どころかその母親までも殺した事に変わりない主人公は、より重い事実を抱えて未来もずっと生きていくことになると感じていた。
運命の皮肉。
女の子を殺したという罪の意識から一瞬解放されたら、もっとひどいことになってしまったという。
彼女がそばに居ると自分も銃撃されて死んでしまうと思った彼は、ヒロ子さんを突きとばす。同時に強烈な衝撃を感じ、轟音とともに芋の葉が空に舞いあがる。白い服を血に染めたヒロ子さんは病院へ運ばれる
「おれは人殺しではなかったのだ」
十数年の悪夢から解き放たれ、有頂天になった彼は、
葬列の後を追う少年に彼女の死因を問うてしまう
「一昨日自殺したんだよ」
「戦争でね、一人きりの女の子がこの畑で機銃で撃たれて死んじゃって、
それからずっと気が違っちゃってたんだ」
葬列はヒロ子さんの母親のものだった。昔の写真しかなく、それを使っていたのだった。
彼は、あの夏の記憶が、今は二つとなった死が、
彼の中で永遠に続くほかないことを知った。
『やまなし』(宮沢賢治)
「やまなし」は、宮沢賢治の短編童話。1923年(大正12年)4月8日付の『岩手毎日新聞』(1933年廃刊。現在の『毎日新聞』とは無関係)に掲載された。担当編集者は当時の主筆(編集長)である岡山不衣。賢治の数少ない生前発表童話の一つであり、「雪渡り」についで発表された。また、発表に先立って執筆されたとみられる下書きの草稿が現存している。発表形との間に異同があり、現行の『新校本宮澤賢治全集』(筑摩書房)では「初期形」として収録されている。
「クラムボン」について
文中で蟹たちが語る「クラムボン」と「イサド」が何を指しているのかは不明である。「イサド」については話の内容からして場所の名前ということだけがわかっているが、「クラムボン」についてはその正体に対して様々な議論が繰り広げられている。英語で蟹を意味する crab や鎹(かすがい)を意味する crampon に由来するとする説、アメンボ説、泡説、光説、母蟹説、妹のトシ子説、全反射の双対現象として生じる外景の円形像説、「蟹の言語であるから不明」とするものや、蟹の兄弟にとって初めて見る、やまなしの花につけた造語だったとするもの、kur (人) ram (低い) pon (小さい) という「アイヌ語でコロボックル」、あるいは「解釈する必要は無い」とするもの、人間という説もある。
光村図書の小学校教科書に掲載された際には、クラムボンについて「水中の小さな生き物」との注釈が挿されたが、旧課程版では「正体はよくわからない」とも注釈されたことがある。
ちなみに、現在の教科書では『作者が作った言葉。意味はよくわからない。』と記されている。
難解な作品でありながらも、この不思議なお話の世界が大人になっても心のどこかに引っかかっている人は結構いるのではないかと思います。子供たちも一読しただけでは意味が分からないながらも、何かを感じているようです。
こういうのが名作の力というべきでしょう、教師の腕前に関わらず、読むこと自体が読者に何らかの作用を与える作品です。
ところが、この話を授業でどのように取り上げるかとなると、教師はとたんに首をひねることになります。
“「やまなし」の授業ができれば一人前”と言われるぐらい、この教材は教師にとって難関です。
「結局、『なんだか不思議な話だよねー』という結論で終わってしまいました。」
などという教師の告白もよく聞かれます。
第二次世界大戦が激しくなり、東京市にある上野動物園では空襲で檻が破壊された際の猛獣逃亡を視野に入れ、殺処分を決定する。ライオンや熊が殺され、残すは象のジョン、トンキー、ワンリー(花子)だけになる。
象に毒の入った餌を与えるが、象たちは餌を吐き出してしまい、その後は毒餌を食べないため殺すことができない。毒を注射しようにも、象の硬い皮膚に針が折れて注射が出来ないため、餌や水を与えるのをやめ餓死するのを待つことにする。象たちは餌をもらうために必死に芸をしたりするが、ジョン、ワンリー、トンキーの順に餓死していく。
(出典:Wikipedia「かわいそうなぞう」)