’64東京オリンピックが成功裏に終り、オリンピックの熱狂が去るとともに、大松博文は監督を引退する。最年少の磯辺サタを除く”東洋の魔女”5人(河西昌枝、宮本恵美子、谷田絹子、半田百合子、松村好子)も、あとに続き、皆各自の道を歩むこととなる。
大松博文は、中国の首相・周恩来の招きで中国の女子バレーを指導することとなった(その後、中国は世界一の座につく)。
名門・日紡貝塚というチームは、東京オリンピックでマネージャーを務めていた小島孝治・新監督に受け継がれ、公式戦258連勝を記録した。以後、チーム名が「ユニチカ」となり、2000年の活動停止をもって「東レ・アローズ」へと引き継がれた。
大松博文は1978(昭和53)年、57歳の若さで他界。墓石の脇には、「根性」の文字が刻まれた”石のバレーボール”が捧げられている。
バレーボールがオリンピックの正式競技として定着すると、諸外国では当然のようにメダルを狙って競技力を高めてきた。ソ連(現ロシア)、東ドイツ(現ドイツ)、ポーランド、ブルガリアなど旧来の強豪国に加え、アメリカ、キューバ、ブラジル、イタリアなどが台頭。アジアでも中国、韓国も力を付け、日本は1984年ロサンゼルス大会での女子の銅メダルを最後にメダルどころかアジア枠のオリンピック出場権を獲得することさえ厳しい状況になってしまった。なんと、シドニー大会では出場すらもできませんでしたが、ロンドンではロサンゼルス大会以来の銅メダルを獲得して、久しぶりに日本の存在感を示した感はあったのではないでしょうか?
2020年の東京オリンピックではぜひとも奮起してくれることを願うばかりです!!。
一方、選手たちは「大松先生の教えがあって今の私たちがいる。厳しいトレーニングの中で多くの事を学んだ」と河西は語る。その河西を中心にまとまったチームは、50年の時を超えて、今も堅い友情で結ばれている。