ヒクソン・グレイシー   まるでみえない力を持った神様
2018年1月18日 更新

ヒクソン・グレイシー まるでみえない力を持った神様

そんなに大きくない体。 あまり太くない筋肉。 哲学者的風貌。 そしてシンプルすぎる戦い方。 これで世界最強の男なんてありえない。 でも (カビラジェイ風に)あるんです。

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桜庭×ホイス・グレイシー

翌2000年、PRIDEグランプリで桜庭とホイス・グレイシーの対戦が決まった。
完全決着を望むグレイシー一族はルール変更を要求。
その内容は、無制限ラウンド・レフリーストップなしの完全決着ルールだった。
2000年5月1日、桜庭 vs ホイス戦は、1ラウンド15分の無制限ラウンド・レフリーストップなしの完全決着ルール。
1ラウンド、桜庭は立った状態からホイスの腕をつかんだまま、ロープから身体を半分乗り出した格好でアームロック。
反則ではないか?と抗議するグレイシーサイドをみて桜庭はカメラに向かってニヤっと笑った。
終了間際に桜庭がホイスに足関節を決めようとしたところで1ラウンドは終了。
2ラウンド以降も桜庭は優勢に試合を進めた。
真剣勝負ではあり得ないモンゴリアンチョップ、寝技に誘うホイスをジャンプして踏みつけたり、道着をつかんでひっくり返し恥ずか固めなど桜庭ワールドを展開。
5ラウンドを過ぎるとホイスの動きが悪化し桜庭はさらに優勢に試合を運んだ。
そして7ラウンド開始にホイスは応じられず、ホイスのセコンドがタオルを投入した。

桜庭和志vsグレイシー一族<PRIDE12>

桜庭和志は、ホイラー・グレイシー、ホイス・グレイシー、ヘンゾ・グレイシー、ハイアン・グレイシーに勝利し「グレイシーハンター」と呼ばれた。

ヒクソン・グレイシー vs 船木誠勝

 (1963693)

Rickson Gracie vs Masakatsu Funaki MMA Pride FC UFC Full (takuma)

2000年5月26日、「コロシアム2000」で船木誠勝と対戦。
4万人以上が東京ドームに押しかけ、テレビ放映は2000万人が視聴した。
船木誠勝の鉄槌で眼球が圧迫され骨折。
片目はみえなくなり、両目の神経はつながっているため、視界が全体的にボヤけた。
目はダメージが受けたことを悟られないようにかばわず倒れたまま構えるヒクソン・グレイシーの脚に船木誠勝はキックを浴びせた。
40秒間、寝たまま蹴られ続け、殴られた目はまだ見えなかったがもう一方の目の焦点が合ってきた。
視界を取り戻したヒクソン・グレイシーは、船木誠勝の膝を蹴った。
後ろに下がった敵の隙を突き立ち上がり、飛びかかった。
そして船木誠勝を引き込んで寝技に持ち込み、バックをとると船木の片腕を首に巻きつけながらマウントパンチを浴びせ、チョークスリーパーを極めた。
船木誠勝はタップ(まいった)せず落ちた(失神した)。
これがヒクソン・グレイシーは最後の試合となった。

悲報

 (1963682)

2001年2月、船木誠勝との試合から8か月後、長男のホクソン・グレイシーが亡くなった。
19歳のホクソンは両親の下を離れてプロモデルとして自立することを決意し、ガールフレンドとともにニューヨークへ渡った。
最初のうちは連絡があったが、数週間後、連絡が途絶え、ヒクソン・グレイシーはニューヨークで道場を経営するヘンゾ・グレイシーに連絡を取りホクソンの捜索を依頼。
ヘンゾ・グレイシーは、ガールフレンドをマイアミで見つけたが既に2人は破局していた。
その後、ヘンゾ・グレイシーはニューヨークに戻り警察や病院で彼を探したが、警察のファイルから、腕に「 The Best Father of the World: Rickson Gracie(世界最高の父、ヒクソングレイシー)」というタトゥーが入った身元不明の死体があることがわかった。
遺体はマンハッタンのプロヴィンスホテルで発見され、アルコールとドラッグが検出され、個人データを持っていないので家族と連絡をとることなく埋葬されていた。
ヒクソン・グレイシーは誰とも会わず家に籠り、柔術もせず、ただ何もせずぼんやりとしていた。
ある日、裏庭の木に登った。
木の上からの眺めは素晴らしく、ヒクソン・グレイシーは亡くなった長男と話すため、ここにデッキをつくろうと決めた。
材料の買い出しから、木の上への引き上げ、もちろん大工仕事まで、どん小さなことでもこのデッキづくりだけはすべてひとりで行った。
毎日、食べて寝る以外、ひたすらつくり続けた。
やがて出来上がったデッキに長男の写真を置いた。
なにかが終わったような気がした。
結局、3年ほど落ち込んでしまったが、ヒクソン・グレイシーは、長男から人生の教訓を得た。
「必ず明日が来るとは限らない!」

引退

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長男が死んだ3週間後、エメリヤーエンコ・ヒョードルとの試合のオファーがあったが、ヒクソン・グレイシーはキャンセルした。
また日本では桜庭和志との対戦が期待されたが実現しなかった。
大きな試合を逃したことに悔いを残しながらヒクソン・グレイシーは再起するチャンスを待ったが、2007年に引退を決意した。

Choke - (A Rickson Gracie Documentary)

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