【桑田真澄】正確なコントロールと、計算された組み立てで野球人生を歩み続ける男!
2016年11月25日 更新

【桑田真澄】正確なコントロールと、計算された組み立てで野球人生を歩み続ける男!

174cm、80kgという野球選手としてはけっして恵まれた体格とは言えない桑田真澄。そんな桑田がどのようにしてPL学園の黄金時代を築き、名門巨人軍のエース背番号「18」を21年間に渡り背負ってきたのか。彼の野球人生を振り返り、その時々のエピソードを見てゆくと「桑田真澄」という男の野球哲学が浮き彫りになってくる!

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プロ入り前後は投手としてだけではなく打撃、守備にも才能を発揮していた桑田に野手転向を薦める者も多かった。しかし、投手としてのプロ野球選手にこだわった桑田は1986年5月25日の中日ドラゴンズ戦でプロ初登板。6月5日の阪神タイガース戦で初勝利を初完投で飾る。ここでも、実力で周囲を黙らせる結果となった。

2年目の1987年7月8日、札幌市円山球場での広島東洋カープ戦で、自らのスリーランホームランとタイムリーヒットでチームの全4得点を叩き出し、プロ初完封勝利を挙げた。このシーズンは15勝6敗、防御率2.17の成績を挙げ最優秀防御率のタイトルを獲得、沢村賞に選ばれた。また、堀内恒夫以来の10代での2桁勝利となった。

翌1988年には、球団史上最年少の20歳0カ月で開幕投手にも抜擢され、名実ともに巨人軍のエースとしての地位を固めていった。

その後も桑田の安定したピッチングは続き、1992年のシーズンまで6年連続の二桁勝利を記録した。

球史に残る「10・8決戦」!

先発三本柱で制した「10・8決戦」!

先発三本柱で制した「10・8決戦」!

日本プロ野球史上初のリーグ最終戦で優勝が決まる試合。日本中の関心を呼んだ一戦を、巨人・長嶋茂雄監督は「国民的行事」と表現した。巨人は2回表、落合博満が中日先発・今中慎二の真ん中低めの速球をとらえ、先制ソロ本塁打。これを皮切りに巨人打線は今中から毎回得点し、4回でマウンドから引きずり下ろした。投手陣は三本柱の一角、先発の槙原寛己が2回に2失点するが、ベンチはすぐに2番手・斎藤雅樹を送り込んだ。斎藤は6回まで1失点ながら被安打3の好投を見せた。攻撃に攻め手に欠く中日だったが、8回裏に立浪和義が一塁にヘッドスライディング。肩を負傷しながらも、三塁ゴロを内野安打とする気迫のプレーに打線も奮起を見せた。しかし、3番手・桑田真澄の前に決定打は出ず。9回、最後の打者を空振り三振に仕留めた桑田のガッツポーズとともに巨人の優勝が決まった。視聴率はプロ野球史上最高の48.8%記録。まさに「国民的行事」となった試合だった。

記事・写真提供: ベースボール・マガジン社
桑田は1994年10月5日、神宮球場でのヤクルト戦に先発登板した際、8回2死までノーヒットノーランに抑える好投を見せていた。しかし、投手コーチの堀内恒夫の指示で中日との最終戦に備えるため、完封のかかった9回を回避する為降板した。「10・8決戦」前日に、宿舎で長嶋に呼び出され、「しびれるところで、いくぞ」と言われた桑田は意欲満々で試合当日に臨んだ。

当日の試合前の練習時に、ファンからの熱い声援を受けてた桑田は15分も涙が止まらなかった。試合中も、初回からブルペンに入って準備はできていたが「体は、疲れでバリバリ」という状態であった。

7回3点リードの状態から登板した桑田はこの時の心境をこう述べている。
(準備は十分であったが、狭いナゴヤ球場等の条件下で)「正直にいうと、怖かった」
また、これも桑田らしいエピソードと言えるが、8回裏、中日の先頭打者として打席に立ったPL学園の後輩で同室だった立浪和義が、一塁ベースに執念のヘッドスライディングで左肩を痛めて退場となりながらも内野安打とした場面に感動したことを認めている。

9回裏2死。斎藤ー槙原からその日のマウンドを受け継いだ桑田は、自身の代名詞とも言える切れの良い大きなカーブで小森哲也を空振り三振に打ち取り、3イニングを無失点に抑えて「10・8決戦」の幕を下ろした。『ベースボールマガジン』の2009年3月号では優勝の瞬間のことを下記のように記述している。 
「(最後の打者が三振の)直後の桑田のガッツポーズは多くの野球ファンの記憶に刻み込まれているはずだ」

古田敦也のプロ野球ベストゲーム「伝説の10・8決戦 94年中日対巨人」 - YouTube

「伝説の10.8決戦 94年中日対巨人」の最終戦を、桑田を始め当時の主力選手のインタビューを交え、古田敦也がさまざまな角度から詳細に解説。

何度見ても、心が震える素晴らしい番組です。
桑田は巨人軍在籍中は斎藤・槙原らと「先発3本柱」として、7回のリーグ優勝、3回の日本一に貢献し、輝かしい歴史を刻んだ。

その一方、ケガにも悩まされ巨人軍の選手として最後の年となった2006年4月13日、東京ドームでの広島戦で600日ぶりとなる勝利、通算173勝目を挙げるも、この試合で走塁中に右足首を捻挫してしまう。同27日の広島戦でも先発投手としてマウンドに上がったが、3回途中で6点を与えてしまい敗戦投手となり、その2日後に登録抹消された。桑田にとって、この試合が巨人軍として1軍での最後の登板となった。

その後も桑田は二軍で懸命に調整を続けたものの、シーズン終盤に入っても一軍昇格の気配がないことから「自分を戦力としては見ていない」と判断し、巨人軍を退団することを決意した。

現役を引退するのか、それとも他球団で現役を続行するのか、桑田の動向に世の中の注目が集まる中、桑田はそのどちらでもない選択を発表した。それが、メジャーリーグ挑戦であった。

最終的に桑田の引退試合は行われず巨人軍のファン感謝デーで『お別れ会』として行われることとなった。イベントの最後に桑田は、
「18番 桑田真澄の野球は、心の野球です。今はただ感謝の気持ちしかありません。(略)…さようなら、そして21年間本当にありがとうございました」
と、ファンの人達や選手を含む読売巨人軍のスタッフに深々と頭を下げ、21年間在籍した巨人に別れを告げた。

39歳70日で夢のメジャーデビュー!

メジャーでも背番号は「18」!

メジャーでも背番号は「18」!

2006年12月20日、ピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を結ぶことが発表された。日本人がパイレーツと契約したのは、マイナーを含め桑田が第1号となった。
マイナー契約ながらピッツバーグ・パイレーツの2007年の春季キャンプに招待選手として参加、開幕メジャー入りを目指していた。ところが、3月26日のトロント・ブルージェイズとのオープン戦で事故が起こった。桑田はセンター前ヒットを打たれた直後ボールの行方を追いながら三塁ベースカバーに入ろうとした際に、同じく三塁の判定に向かっていた球審と激突。右足首の靭帯断裂という大怪我をしてしまった。その時の審判が「3人制」だったために、球審は三塁での判定をするため三塁に向かっていた為、桑田と交錯することとなってしまった。これにより、開幕メジャー入りが絶望となっただけではなく、長い期間のリハビリ生活を余儀なくされた。

そんな桑田をパイレーツは解雇することなく、インディアナポリス・インディアンズ所属のマイナー選手のままで3Aの故障者リストに入れリハビリをサポートした。その後もフロリダでリハビリを続け、5月19日にはフリー打撃のピッチャー、5月24日には練習試合での登板をクリアして、3Aインディアナポリス・インディアンズに合流することができた。合流して間もなくの6月2日、3Aではあるがアメリカでの公式戦初登板を果たした。

3Aに復帰してからも順調な調整ぶりをアピールした桑田は、中継ぎ陣が絶不超であったというピッツバーグのチーム事情にも後押しされ、6月9日にメジャー昇格を果たした。そして翌日の6月10日にヤンキースタジアムで行なわれたニューヨーク・ヤンキース戦で、ついに念願のメジャー初登板を果たした。ちなみに、39歳70日でのメジャーデビューは当時日本人選手としては史上最高齢であり、長いメジャーリーグ史上においても第二次世界大戦以後ではサチェル・ペイジ選手の42歳、ディオメデス・オリーボ選手の41歳に次ぐ第3位の高齢メジャーデビュー記録であった。

昇格後は監督のジム・トレーシーから「大事な場面でストライクが取れる」と好評価を獲得するまでになり、中継ぎ投手として大事な場面で起用される機会が増えた。しかしながら、巨人時代にも指摘されていた球威の衰えと、桑田最大の武器であるコントロールの精度も落ちており、大事な場面で打ちこまれるという場面が続いた。

結果桑田はメジャーで19試合に登板し、0勝1敗、防御率9.43と言う成績で1勝も上げないままピッツバーグより戦力外通告を受け、プロ野球選手としての引退を決意することとなった。

引退後も野球に対する情熱は衰えず!

現役引退後も日本の野球界の発展の為に精力的に活動中!

現役引退後も日本の野球界の発展の為に精力的に活動中!

引退後は野球解説者、評論家、コメンテイターとして活動。また、私生活では2009年1月28日、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程1年制コースに合格し、大学院では平田竹男教授の指導を受ける。その時の同期生には政治家の中山泰秀や競艇選手の江口晃生などがいる。2010年3月25日、首席で修了。修士論文の題目は「『野球道』の再定義による日本野球界のさらなる発展策に関する研究」。本作で最優秀論文賞を受賞。
桑田は現在の日本における野球を含めたスポーツの指導のあり方について問題提起をしており、スポーツニュースや野球中継の解説などで持論を積極的に発信している。質の伴わないダラダラとした長時間練習や、先輩や指導者に対する行き過ぎた上下関係の強要、また「「指導」という名の「体罰」は必要である」といった古い体育会系思想を痛烈に批判。2013年1月12日付けの朝日新聞社会面で、桑田は体罰について次のように語っている。
「私は、体罰は必要ないと考えています。“絶対に仕返しをされない”という上下関係の構図で起きるのが体罰です。監督が采配ミスをして選手に殴られますか? スポーツとして最も恥ずかしき卑怯な行為です。」
桑田は体罰を肯定している指導者に対して「体罰」は「指導者が怠けている証拠である」と厳しく指摘している。

ストイックとも言える桑田真澄の野球人生。
桑田の視線の先には、永く険しい道がまだまだ続いているのであろう。
そんな厳しい道中も桑田の顔には、いつもの穏やかな笑顔が広がっているに違いない。

今後も桑田の歩む「野球道」から目が離せない。
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