【桑田真澄】正確なコントロールと、計算された組み立てで野球人生を歩み続ける男!
2016年11月25日 更新

【桑田真澄】正確なコントロールと、計算された組み立てで野球人生を歩み続ける男!

174cm、80kgという野球選手としてはけっして恵まれた体格とは言えない桑田真澄。そんな桑田がどのようにしてPL学園の黄金時代を築き、名門巨人軍のエース背番号「18」を21年間に渡り背負ってきたのか。彼の野球人生を振り返り、その時々のエピソードを見てゆくと「桑田真澄」という男の野球哲学が浮き彫りになってくる!

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桑田真澄選手の基本情報

桑田真澄選手の基本情報

出身地:大阪
生年月日:1968年4月1日
身長:174cm
投球・打席:右投げ・右打ち
ポジション:投手
経歴:
PL学園高等学校
読売巨人軍(1986-2006)
ピッツバーグパイレーツ(2007)

小中学時代からその頭角は現れていた!

小学2年生の時に町内会のソフトボールチームに入団。6年生主体のチームにも関わらずすぐにショートのレギュラーポジションを獲得。翌年の小学3年生にはボーイズリーグの野球チームに所属し、小学5年生の時には主力選手として活躍していた。当時父親である泰次により、
キャッチボールではミットを動かさないようにして投げた球が逸れると自分で取りに行かせる方法でコントロールをつける練習や、正しい捕球の仕方を覚えさせる為にグローブの綿を抜く
など「巨人の星」さながらの特訓を受けており、それは小学4年から中学を卒業するまで続いた。

大正中学時代にバッテリーを組んでいたのが、プロ野球選手としても活躍した西山秀二(前・巨人一軍バッテリーコーチ)である。この年の大正中は投打とも地域では他を寄せ付けない圧倒的に強かったと言われている。大会50周年記念誌には、「桑田の球はファウルにするのがやっとという有様で、たまに出塁しても、見事なピックオフプレーにやられ、完敗を喫した。負けて悔しいというよりも、あまりの力の差に唖然とさせられるばかりだった」と、中学時代の桑田の凄さを物語るエピソードが掲載されている。当時の桑田のことを西山は次のように語っている。
「140kmくらいの球を、中学生の頃から放ってたね。すんごいコントロールしとったよ。ミットを構えた所にしか、ホンマにボールが来なかった。プロに入って、暴投を捕れなくてコーチに怒られた時、『桑田はこんな所に来ぃへんかったもん。中学生でもそうなのに、なんでプロが出来ないの?』と聞きましたよ。誰も打てんかった。高校野球で1年生から優勝して当たり前、プロでも活躍して当たり前、そういうボールやった。ずーっと野球やってきて、総合的に桑田が一番凄いと思う。オレの中では歴代ナンバーワンのピッチャーは桑田」
また中学時代の特筆すべきエピソードとして、野球の為に中学3年生の3学期に中学校を転校したというものがある。これは「PL学園に進学したい」という桑田に対し、当時在籍していた学校側は「お前は勉強もできるから、○○高校にしろ。お前が○○高校に行けば○○高校は他に5人のうちの生徒を入学させてくれる。PL学園へは絶対に行かせない」と、桑田のPL学園進学を許さなかった為である。最終的に桑田はPL学園に進学する為に八尾市立成法中学校に転校をして中学を卒業した。

高校生の時からプロ野球人生の未来予想図を描いていた!

PL学園入学直後は、同級生のチームメイトの清原和博と田口権一(元・本田技研野球部)の長身コンビに注目が集まり、当時172cmしかない桑田は監督から外野手転向を言い渡され、球拾いをする毎日であった。そんなある日、母親が練習を見に来た際に「もう自分は投手ではダメなのでPLを辞めようかと思っている」と胸の内を正直に打ち明けた。甘い言葉を掛けてもらえると期待していた桑田に対し、母親の言葉は「補欠でもいいから投手として3年間、PLでやり通しなさい」という厳しいものだった。

母の叱咤激励に応えるように、桑田は自分の存在価値に磨きをかけていった。
僕がPL学園で清原和博、田口権一という190センチクラスの選手2人を目の当たりにした時に「普通に野球をやっていては自分はこのまま終わってしまうな。彼らと競い合っても駄目だ。自分は自分らしさを大切にしよう」と強く感じました。そこで自分らしさとは何かを考えた時、それは「総合力」だと言う答えにたどり着いたんです。

だから僕は、投げて、打って、走って、そしてメンタル的にも高みを目指して、その総合力で勝負しようと思ったんです。

だからこそ、野球以外のことも大切だと感じて、そこから勉強をするようになり、色々と本を読むようにもなりました。その結果、判断力、忍耐力、分析力、そういった色々なことを学べたと思います。今思えば、PL学園で彼らと同じチームになったことは何かのめぐり合わせを感じますし、あの時彼らに会っていなければ、今の自分はいなかったかもしれません。
高校時代に投げていた球種はストレートとカーブだけ!

高校時代に投げていた球種はストレートとカーブだけ!

桑田はプロに進んだ時の事を考え、ストレートとカーブのみで3年間通した。これは、球種を少しずつ増やして行くことによってピッチャーとしての選手生命を伸ばすことが事が目的であった。

また「まっすぐとカーブで高校生を抑えられないようなピッチャーではプロで大成する訳がないと思っていた」とも後に語っている。

ある時、試合でストレートとカーブしか投げない桑田に対して清原が「もっと簡単に勝てるんだし、スライダーやシュートもキレてんのに何で投げへんねん?」と問い詰めると、上述のことを言われ「とんでもないヤツと一緒に野球をやっとったんや」と驚愕したという。
また、桑田を語るにあたり、絶対に素通りできない重要な人物がいる。それが市神港高校・報徳学園の野球部監督として春4回、夏4回の甲子園出場経験があり、神戸製鋼の監督として都市対抗野球でも優勝(1977年)した清水一夫臨時投手コーチである。清水がPL学園の臨時コーチに就いてすぐに桑田の外野からの返球を見て球の回転の良さに驚き、「おい、あんな選手がおるんか。凄いのがおるじゃないか。学年など関係ない。私に任せてくれ。夏までに立派なピッチャーにしてみせる」と発言し、桑田を投手に戻しマンツーマンの指導をした。

桑田が1年生の夏の大会の地区予選4回戦、大阪球場での吹田高校戦前に「もし桑田を先発させて負けるようなことがあったら全責任はワシが取ろう。ワシも長いこと野球に関係して来たが、この試合は桑田や。これで負けたら、ワシは一切野球から足を洗おうやないか。」と中村へ桑田先発を猛アピール。当初、中村は同意しなかったが、清水の投手コーチとしての力量と、その迫力に押され、桑田の起用を決意した。試合直前まで雑用係をしていた1年生の桑田の公式戦先発デビューが突然決まったのである。桑田を見下していた上級生のチームメイトは「ああ、もう負けや、三年間の高校野球は終わった」とか、「お前がおるからあかんのや」と桑田に悪態をついた。しかし、この試合で清原が公式戦初本塁打で桑田を援護すると、それに応えるように桑田は相手打線を2安打完封に抑えるという結果を残し、実力で上級生を黙らせた。いわゆる「KKコンビ」が誕生した瞬間である。
KKコンビ誕生!

KKコンビ誕生!

桑田と清原の「KKコンビ」率いるPL学園は、高校野球激戦区の大阪府から出場可能な5回全てにおいて甲子園出場を果たした。そして、1回のベスト4、2回の準優勝、2回の優勝という凄まじい記録を残し、文字通りPL学園の黄金時代を築いた。
桑田の才能を見出した清水は当時の桑田の事を次のように語っている、
「当時の桑田は下半身が発達していながら、その使い方を知らなかった。だから足腰、膝の使い方を教えた。それだけでよかったんです。腕のしなり、天性の肩の強さは惚れ惚れするほど。毎日、私が桑田の球を自ら受け、一日、一日成長してゆくのが手に取るように分かったものでした。球の切れ、伸び、変化球の絶妙な使い方、どれをとっても素晴らしかった。そして、どんな過酷なトレーニングにも泣きそうな顔をしながらついて来た、見事な意志の力。私を恩人と今も慕ってくれているが、私としては『この子を使わん手はない』とコーチとして考えただけのこと。」
桑田の高校時代のエピソードとして印象的なものがある。
夏の甲子園の活躍により1年生で唯一、全日本高校選抜メンバーに選ばれアメリカ遠征を経験する。帰国後、1年生で優勝し、首脳陣の信頼を勝ち得た桑田は中村監督に全体練習の短縮化(3時間程度)と個人練習の強化、大会後の投手のノースロー調整を提案。
中村監督はこの桑田の提案を受け入れ、その後PL学園の黄金時代を迎えることとなった。

読売巨人軍で躍動する背番号「18」!

マウンド上では圧倒的な存在感を放った!

マウンド上では圧倒的な存在感を放った!

【巨人軍時代に獲得した主なタイトル・表彰】
(タイトル)
最優秀防御率:2回 (1987年、2002年
最高勝率:1回 (1998年)

(表彰)
最優秀選手:1回 (1994年)
沢村賞:1回 (1987年)
最優秀投手:1回 (1987年)
ベストナイン:1回 (1987年)
ゴールデングラブ賞:8回 (1987年、1988年、1991年、1993年、1994年、1997年、1998年、2002年)
日本シリーズ優秀選手賞:1回 (1994年)
最優秀バッテリー賞:1回 (1994年 w/村田真一)
月間MVP:4回 (1987年7月、1991年4月、1993年5月、1998年8月)
優秀JCB・MEP賞:1回 (1991年)
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