天才パンチャー 柴田国明
この時点で柴田は、21勝無敗、日本フェザー級4位。
相手は世界6位のドワイト・ホーキンス。
キャリア14年のベテランだった。
柴田は、これを破って世界ランキング入りを狙っていた。
ホーキンスのセコンドにエディがいた。
7R、ホーキンスの強烈なボディでKO負けした。
柴田は担架で運び出され、救急車で病院へ送られた。
後遺症で血便が続いた。
3ヵ月後、後楽園で試合に出る後輩の計量に立ち会っていたとき、エディに会った。
「おお、シバタ。
どうしてた?」
エディは柴田の顔を見るなり声をかけた。
「あんなにボディ打たせちゃダメよ。
ホーキンスのあのレフトフックは防げるの。
もっと右の肘を上手に使いなさい。」
柴田はエディのいっていることがわからなかった。
「OK、こうよ。」
エディは立ち上がって相手のボディフックを右肘でブロックするジェスチャーをしてみせた。
「パンチを受ける瞬間、拳をひねるだけでいいのよ。」
エディはナックルパートを内側に向けて右にひねった。
柴田が打ってみると、エディの肘の先端が腕の内側に当たった。
ベン・ビラフロア vs 柴田国明 1
試合は2週間後。
相手はWBAの世界Jライト級チャンピオン:ベン・ビラフロア。
殺人的強打を持つサウスポーだった。
ヨネクラジムの米倉会長は、エディに臨時トレーナーを要請した。
柴田は日本チャンピオンになった後、メキシコに渡り、ビセンテ・サルジバルをTKOし、WBC世界フェザー級チャンピオンになった。
しかしそれをクレメンテ・サンチェスに奪われた。
そして今回1階級上の世界タイトルに挑戦するチャンスをつかんだのだ。
「クニアキにはスピードもパンチもあるけど、もっとパワーアップできるよ。
パワーアップしなきゃベンに勝てない。」
エディは1週間のトレーニングで脚のシフトとパンチの角度を教えた。
「クニアキ。
パンチは手で打つんじゃない。
脚で打つのよ。
わかる?」
素早く脚をシフトさせることでパンチの効果は高まる。
「パンチは相手に対して交差させずに直角に当てるの。
直角に当てると1番エフェクティブなの。」
柴田はハワイへ飛んだ。
チャンピオン:ベン・ビラフロアは、20歳で、戦績は62戦53勝35KO3敗6分。
柴田もパンチはあるが、連打型で1発の威力ではビラフロアにかなわない。
柴田は素晴しいスピードで若きチャンピオンを翻弄した。
ベンのうなる強打をことごとく空振りさせた。
その持論は、
「最初のパンチを大振りしない。」
だった。
「右ストレートは有効だが、1発で決めようと思っても、標的までの距離が遠いから、これはかわされてしまう。
そこで最初の1発、2発は当てる事を目的とせず軽くフェイント気味に出しておいて3発目を当てるつもりで打つのがいい。
もちろん大振りでなく、ショートパンチが定石。
相手の左ストレートの正面に立たない。
出来るだけ右の脇腹を絞って戦う。」
柴田は強打者ベン・ビラフロアの強打をかわしきり、見事Sフェザー級の世界タイトルを獲得した。
ベン・ビラフロア vs 柴田国明 2
わずか116秒だった。
柴田はスピードもパンチもあったが、顎がもろかった。
打たれもろい柴田はワンパンチで負けた試合が多かった。
試合は来年の2月。
時間はあまりなかった。
柴田は身長163cm、アルレドンドは170cm。
リーチの差は15cm。
柴田は基本的にファイターで、前に出て相手に接近できないと勝機はない。
アルレドンドの懐の中にどうやって入るか?
「クニアキ。
ジャブから入るのが基本よ。
クニアキの左ジャブ、ショートね。
アルレドンドよりずっとショート。
でもあんたは肩幅が広いね。
それはとてもラッキーなのよ。
OK?
左ジャブを出すとき、肩を入れて、ビューンとひねるようにして打つの。
そうするとリーチに肩幅がプラスになってロングになるでしょう。
その広い肩幅を利用するの。」
柴田はジャブを肩を入れて打ってみた。
「これだけではダメ。
今度はうんとステップインして、下から上へ突き上げるように打つの。
スピーディーに入って、ウワーンと突き上げるようにジャブ打つ。
そうするとアルデドンドより速く絶対にヒットします。」
柴田はエディの構えるミットにパンチを送り込んだ。
エディとのミット打ちは気持ちがいい。
パンチがミットに当たると乾いたいい音がする。
パンチを真っすぐに受けるからだ。
強いパンチに対しては、痛みを嫌がってミットを引きがちになるが、エディはそれをやらない。
ピッチャーの投球をミットを突き出してうけるキャッチャーのようなものだ。
ピッチャーもボクサーも、その音に気持ちをよくし自信をつけていく。
ハードなパンチでミットが吹っ飛ぶこともあった。
それでもエディはかまわず時間が来るまで素手のままパンチを受け続けた。
柴田国明のコンディションは上々だった。
アルレドンドは、キューバ大使館に勤務している女性に惚れ込み口説いていた。
2月28日、柴田はリングに上がった。
ガウンを着たままロープをつかんで屈伸運動をしたとき、
「プチッ」
と音がして足首に激痛が走った。
「エディさん。
右足首が痛い。
歩けない。」
エディは、シューズの上からさすってみるがわからない。
首をかしげながら、氷の入ったバケツからアイスピックを取り出して、痛いというあたりをコツコツ叩いてみた。
柴田は痛みで叩かれた感覚がなかった。
セレモニーはどんどん進んでいく。
国歌斉唱が始まった。
「エディさん、歩けないよ。」
「クニアキ。
もし後ろから殺し屋がナイフ持って「殺すぞ」言うたらどうするの!
足痛いでもヒュー、逃げるでしょ。
そのつもりで動くの。」
ゴングが鳴った。
リーチが短い柴田は、頭をリズミカルに動かし、速く突き上げるようなジャブをヒットさせた。
「足が痛い。」
「クニアキ。
このリングから出られないのよ。
ここから出たら一生の笑いものよ。
相手を殺しなさい!
殺さないと出られないの。
いい?
クニアキ、アルレドンドの目をみなさい。
他を見たらダメ!」
2Rはイーブン。
3Rは柴田がとった。
「Oh、よく動くね。
大丈夫よ。
あんた絶対勝てるよ。」
6R、柴田はアルレドンドをダウン寸前まで追い込んだ。
靭帯が切れたはずだが、きっちり締めつけたシューズがギブスとなった。
「Oh、クニアキ、よく動くよ。
素晴らしいねぇ。
ウワーン、ウワーン、左ジャブがいいよ。
アルレドンド何もできないね。
次のラウンドもとるのよ。」
柴田は右足が不自由なので右のパンチはあまり出せないので左ジャブを多用した。
リーチが長いアルレドンドが左で打ち負けた。
柴田優勢のまま最終ラウンドが終わった。
「シバター!」
レフリーは青コーナーを指した。
柴田がフェザーとJライトの2階級を制覇し3度目の王座についた。
控え室でシューズを脱ぐと、右足首は紫色に腫れ上がっていた。
エディは柴田を抱きしめねぎらった。
「シバタ、よくやりました。
すごいガッツね。」
「ほんとうに根性だけでやりました。」
柴田国明 vs ラミロ・ポラニョス
式はロスアンゼルスの教会で行われ、フジテレビのラブラブショーで放映された。
このときすでに柴田は2度目の防衛戦が決まっていた。
相手は、ラミロ・ポラニョス。
20歳。
56戦52勝40KO4敗。
KO率71%。
ポラニョスが勝てば、エクアドル初の世界チャンピオンとなるため、ロドリゲス・ララ大統領は、勝てばポラニョスに車と家をプレゼントすることを約束した。
ポラニョスは祖国の英雄を目指し燃えていた。
一方、柴田にも負けられない理由があった。
日本のボクシング界は、酒、煙草、女はボクサーを弱くするといわれ、現役ボクサーの結婚に否定的だった。
ボクサーは飢えて敵意に満ちていないといけないという考え方が根づいていた。
もし負けようものなら
「結婚なんかして、チャラチャラしてるから負けるんだ。」
といわれるのが目にみえている。
「奥さんを悪くするのも良くするのも、この試合によるよ、クニアキ。
この試合に勝ったら奥さん良くなる。
負ければ悪くなるの。
だからガンバルの。」
負けれらない理由はもう1つあった。
試合翌日の10月4日は、エディの50歳の誕生日だった。
なんとしても勝ってエディの誕生日に花を添えたいと思っていた。
「ボク、エディさんの誕生日にいいプレゼントしたいです。」
「OK、ありがとう。
あんた、ナイスボーイね。」
柴田は挙式をすませると、新居に新妻を置いたままジムの2階に住み込み、激しい練習をこなし、伊豆でトレーニングキャンプを2度も行った。
(ポラニョスに勝つ)
柴田は一途に思い込んだ。
10月3日、 柴田vsポラニョスの試合が行われる日大講堂には12000人の観客が入った。
1R、柴田は積極的に出ていきなり右フックがヒット
続いて右ストレート
左右フック
ボディアッパー
初回は柴田が取った
2R
ポラニョス、気負って前に出てくる
柴田、
右ストレートでカウンターをとって
ボディへ左フックから顔面へ左フック
右ストレートから左右フック
ポラニョス、ダウン
柴田、倒れたポラニョスに右フックをたたきつける
5R
ポラニョスのKO予告Rはあっけなく過ぎた
その後もポラニョスのクレイ並みの正確なパンチは空転し続けた
柴田がポラニョスの両目にシャッターを降ろしていた
柴田はワンサイドで打ちまくった
15R
「OK、シバタ
あんた、チャンピオンよ」
柴田はエディの声で最終Rに出て行った
軽く流せば問題なかったが最後に猛烈な攻撃を仕掛けた
スタミナの心配がなくなり全部出し切ったのだ
ポラニョスはサンドバッグのように打ちまくられ
レフリーは試合をストップした
「頼む、やらせてくれ」
食い下がるポラニョスを押さえてレフリーは両手を大きく振った
2分29秒KOだった
控え室で顔を化け物になったポラニョスはうなだれた
「2回のダウンが効いた
シバタの速攻は予想していたが
まともに食ってしまった
シバタは強い
本当の世界チャンピオンだと思う」
その夜、
赤坂プリンスホテルのレストランで祝勝会が催された
これはエディの50歳のバースディパーティーでもあった
「良かったわね」
約2ヶ月ぶりに夫の顔を見た新妻はただ一言しか言えなかった
柴田が新婚生活に入ったのはその2日後だった
和製クレイ カシアス内藤
内藤の父、ロバート・H・ウィリアムは黒人のアメリカ兵だったが、内藤が2歳のとき、戦死した。
内藤は、兵庫県神戸市で生まれ、神奈川県横浜市で育った。
高校でボクシング部に入部し、ミドル級で高校チャンピオンとなった。
そして高校卒業と共に千葉県船橋市へ引越し、石川会長宅に住み込んだ。
部屋には他に2人の選手がいた。
6月、内藤のリクエストで、エディが船橋ジムにやってきた。
内藤は典型的なアウトボクサーで、脚を使って動いて動いてポイントアウトしていくボクシングスタイルだった。
エディは脚を使って動きながら、打つときは脚を止めて思い切り打ちまくる戦法を教えた。
「止まったらバババーンよ。」
1968年11月13日、内藤はプロデビューし、連勝した。
1969年1月13日、6回戦へ進み、リングネームをつけることとなった。
内藤は憧れのモハメド・アリの本名:カシアス・クレイに因んで「カシアス内藤」という名を選んだ。
1970年2月25日、日本ミドル級王座を獲得。
1971年1月6日、東洋太平洋ミドル級王座獲得。
ここまで24戦22勝(10KO)2分の負け知らず 。
日本から重量級の世界チャンピオンの誕生を期待された。
内藤は日本タイトルを返上し世界獲りの体勢に入った。
輪島功一 vs カシアス内藤
しかし6R、2分5秒でKOされ、初黒星を喫っした。
「あれは反則だからビデオを見せて本部にクレームをつけてくれ。」
内藤は、ダウンは背負い投げを食らって倒れたものだと主張した。
しかしなにも起こることはなかった。
「これで情熱が冷めた。」
全勝が消えた途端、一気にもろくなった。
この後、輪島公一に負け、柳済斗に3度負け、スチーブン・スミスに負け、工藤政志に負け、そしてあっさりリングから消えた。
知り合いがジャワ島スラバヤ市にボクシングジムを持っていたので、内藤は変化を求めてインドネシアに行った。
そしてボクシングをやりながらのんびりと暮らした。
モデルはカシアス内藤。