そしてハードなトレーニングをこなした。
「あの柳済斗に4度も負けているが自分ではどうしても納得できなかった。
彼は東洋チャンピオンだったからもう1度やってみたかった。」
10月12日、カシアス内藤は大戸健を5RKO。
再起を果たした。
1979年3月19日、東洋ランカーである羽草勉を7RKO。
東洋太平洋タイトルへの挑戦のレールを敷いた。
しかし夢にまで見た宿敵:柳済斗はタイトルを返上し引退。
カシアス内藤は、ハシゴを外されたような気持ちになった。
8月、柳済斗の引退に伴い、カシアス内藤と朴鐘八のタイトル決定戦が韓国の仁川市で行われ、内藤は2RにKO負けした。
その半年後、カシアス内藤は鈴木直人に敗れ引退した。
カシアス内藤が敗れた輪島、柳、工藤、朴は後に世界チャンピオンになった。
「おおナイトウ。
ボク、あんたに全部教えたよ。
全部、全部、全部、全部教えて世界チャンピオンになれなかったの、あんただけよ。」
RICKY(ドキュメント カシアス内藤) #1
ジムの名前の「E&J」は、恩師と本名のイニシャルに因んでいる。
「恩師と約束をしたあの日から26年、自分の夢に向かっての第一歩をようやく踏み出すことができました。
まずジムを開設するにあたり、私の夢の実現のために力を貸してくださったたくさんの皆様と、写真集やこのウェブサイトを通してE&J カシアス・ボクシングジムを見守っていただいているすべての皆様に御礼申し上げます。
現役時代、4年間のブランクを経てカムバックする際に、私は恩師であるエディ・タウンゼントさんと2つの約束をしました。
必ずチャンピオンになること、そして将来自分のジムを作って後進の育成をすることです。
エディさんは誰か一人の力に頼るのではなく、みんなの力を借りてみんなに応援してもらいながらジムをつくりなさいといっていました。
エディさんのその言葉どおり、今、私の夢への道のりをたくさんの方々に見守っていただいています。
何千という目が、私をみています。
皆様のその目が私の力になっているのです。
私はこのジムを、練習生がそれぞれの希望をかなえることのできるジムにしたいと思います。
プロになるために、運動不足を解消するために、ダイエットのためにといったあらゆる目的の方を歓迎します。
そして同年代だけではなく様々な年代の、様々な職業や背景を持った練習生たちとのコミュニケーションを通じていろいろなことを学んでほしい。
そして戦いたい、勝ちたいよりも前に、何よりもまずボクシングを好きになってほしいと思います。
これはエディさんの考えでもありました。
好きだから続けることができるし、苦しさにも耐えることができるのです。」
21(ドンピン)
ドンピンはブラックジャックのドンピンである。
ボクシングトレーナーというのは経済的に成り立ちにくい職業である。
ボクシングジムでさえ、世界チャンピオンを何人か抱え、防衛し続けていない限り、純粋にボクシングジムのみの経営で生計を立てるのは難しい。
ましてトレーナーとなるとなおさらである。
多くのボクシングトレーナーは、他に仕事を持ち、それが終わった後にジムへ指導を行く。
好きでなければつとめらないボランティアみたいなものである。
「人を強くする」「チャンピオンをつくる」という夢が、彼らをかりたてている。
しかし当然、タウンゼント家の家計はひっ迫する。
タウンゼント家には2人の娘がおり、娘たちはインターナショナルスクールに通っていた。
学費は安くはない。
エディの妻:百合子はスナックのママとなって家計を支えた。
元ダンサーで、下町気質の百合子のおかげで、ボクシング気違いの夫は思う存分トレーナーに専念できた。
客は常連ばかりで、近所の人や友人、ボクシング関係者たちで静かに賑わっている。
「ボクシングに一生を捧げた主人公を尊敬し誇りに思います。
トレーナーとなってからの35年間、時には、主人を取られたようで寂しくて嫉妬すら 感じた事もありました。
しかし主人がそうであったように 、私にとっても選手は大事な子供達でした。
娘シャローンとダーナ、そしてたくさんの選手達、それは私の大切な宝物です。」
(百合子タウンゼント)
現在、毎月21日は、ドンピン会が、エディ・タウンゼントを偲び、百合子夫人を励ますために開催されている。
伝説の男 ガッツ石松
白タク(営業許可を受けず自家用車を使ってタクシー営業している車)を流していた仲間の1人からだった。
「兄ぃ、
や、やられ・・・
・・・巻かれてる。
別の白タクのヤツらだ。
チクショー。
向こうは10人くらいいやがる。」
「今行く。
待ってろ!。」
受話器を叩きつけ、鈴木有二(ガッツ石松)は1人で飛び出し、深夜の池袋を走った。
やがて人だかりをみつけた。
15、6人の男がオモチャのように2人の男を弄んでいた。
その周りに大勢の野次馬が囲んでいた。
鈴木有二(ガッツ石松)をみつけた仲間はボコボコの顔を歪めて泣き笑いの表情になった。
「兄ぃ!」
「おう、悪かった。」
「なんだ?てめえ。
関係ないヤツはすっこんでろ。」
「悪いな、関係あんだよ。」
男たちはいきり立った
「邪魔するんじゃねえ。」
「ブッ殺す。」
1人がナイフを出して構えニタッと笑った。
(卑怯っ。)
鈴木有二(ガッツ石松)は多勢に無勢の上に、素手で戦わないことに腹が立った。
(カス以下だ。)
腹は決まった。
スッと腰を落とし構えた。
「ウグッ!」
「次ッ!」
「ウッ。」
「おめえも!」
「ウゲッ。」
東洋チャンピオンの拳は次々と男たちを地面に沈めていった。
8人までは数えていたがあとはわからなかった。
時間にしてわずか1分足らず辺りに男たちが転がってうめき声を上げていた。
「そこまでだ!!!」
肩に固く冷たいものが押し当てられた。
「あんだ?」
それは警棒だった。
次の瞬間、鈴木有二(ガッツ石松)は数人の警官にガッチリ押さえ込まれた。
周りをみると大勢の警官がいて、数台のパトカーがサイレンを鳴らし赤色灯を回していた。
「現行犯で逮捕する。」
手錠をかけられパトカーに押し込められた。
鈴木有二(後のガッツ石松)が連行された池袋署には、たくさんの記者がきて、翌日の新聞にはハデな見出しを躍らせた。
”ボクシングのチャンピオン、8人をKO路上でケンカの助っ人”
”三度笠チャンピオン、路上で8人KO”
TV、ラジオでも取り上げられ、世間では、鈴木有二(ガッツ石松)を非難する声も上がったが、胸にすくようなガッツ石松の武勇伝に喝采を送る人もいた。
ロベルト・デュラン vs ガッツ石松
フェザー級の柴田国明を追うように、ライト級の鈴木有二が世界ランカーが育った。
柴田も鈴木も2度外国に渡り、世界タイトルに挑戦していた。
しかし柴田は2度ともタイトルを奪取したが、鈴木は2度ともKOで敗れた。
それでも鈴木は東洋太平洋王座を2度防衛し、世界ランキング9位を維持していた。
そこへWBC世界王者:ロドルフォ・ゴンザレスから「スズキの挑戦を受けてもいい。」と打診があった。
柴田国明の方もリカルド・アルレドンドへの挑戦が決まっていた。
米倉会長は記者会見を開き、鈴木と柴田の世界タイトル挑戦を発表した。
鈴木は翌年1月17日、柴田は2月28日、それぞれ日大講堂で行う。
1つのジムから同時に2人の世界挑戦は前代未聞の快事だった。
さらに米倉会長は
「来年1月からエディ・タウンゼントさんと正式に専属トレーナーとして契約した。」
と発表した。
鈴木の世界挑戦には疑問を持つ関係者も多かった。
鈴木の過去2度の世界挑戦で2度KO負けという戦績から、今回も勝てる可能性は低いと思われた。
柴田は入門当初から世界の器といわれエリートとして育ったが、鈴木は16歳で入門し、プロテストを2度目で合格し、デビュー戦を1RKO。
その後も連勝したが、5戦目で不慣れなサウスポーを相手に判定負けした。
「しょうがねえなあ」
と米倉会長は、ジムの後援会長であり安土桃山時代の武将、蜂須賀小六の末裔だという蜂須賀氏に引き合わせた。
「お前の面構えは森の石松そっくりだねえ。」
「ハッ?」
「決まりだ。
今日からお前は鈴木石松だ。」
「いいですねえ。
ついでに三度笠に道中合羽でも羽織らせますか。」
「ちょんまげ結って刀差すってのはどうだ?」
「ワッハッハッ」
会長たちは盛り上がっていた。
そして6戦目。
花道に三度笠、合羽姿で登場し、リングに上がると三度笠を客席に向げ投げ、ポーズをとった。
すると
「(ゴチン!)痛ェッ!」
と笠が大きく弧を描いて後頭部に直撃した。
会場は大ウケ。
レフリーと対戦相手も笑いをこらえていた。
そしてこの前回負けたサウスポーボクサーとの再戦を引き分けた。
この後、月1回というハイペースで試合をこなしていった。
2度目の世界挑戦の相手は、あの伝説のチャンピオン、「石の拳」ロベルト・デュランだった。
1R、デュランは、少々の被弾もおかまいなしに得意のパンチをブンまわして強引に出てきた。
鈴木の左フックでデュランが一瞬腰を落とすシーンがあったが、いいのはこの場面だけで10R、2分17秒、KO負けした。
「この根性なし。」
試合後の控え室で米倉会長がいった。
「いいか有二。
おめえに1番足りないものが何かわかるか
それはな、ガッツだよ。
コンチキショーのガッツがおめえにはないんだ。
ガッツがなくて世界を狙えるかってんだ。
バカ野郎。」
そして再びリングネームを改名、「ガッツ石松」となった。
とうとう本名:鈴木有二は欠片もなくなった。
ガッツはエディの指導を受けるのはこれが初めてだった。
ガッツは独特の個性を持っていて、他人に強制されることが大嫌いで万事独立独歩だった。
誰かの命令でロードワークに出ると、途中で近道をして帰ってきて、水道の水を浴びて全力疾走したようにみせた。
「Hey、ガッツ、6時よ。」
「エディさん、オレ眠いよ。」
「OK、じゃあ何時?
9時?10時?
ハイ、10時ね。」
「あっ、オレ起きます。」
「OK、走るね。
Get Up」
エディはあくまで選手がやる気になるまで待った。
そうされるとガッツとしても自然と起き上がれた。
ガッツは初めて嫌いなロードワークを走り込んだ。
こうしてすべて自分の責任においてトレーニングするので、ごまかしは自分の損である。
石松とエディのフィーリングはピッタリ合った 。
「ガッツ、あんたの左はすっごく強い。
でももっと強くなれる。
あんたの打ち方は肘が上がっている。
これだとパンチの力が抜けるのよ。
左の脇を締めて下から上へ突き上げるの。
アッパーで打つの。」
そして左を嫌になるほど繰り返した。
次はディフェンスの問題。
石松はボディが弱かった。
「ガッツ、ボディ空いてるね。
それは肘でカバーするの。
エルボーブロックね。」
エディは拳を捻って肘を張ってカバーする防御を教えた。
ガッツ石松の戦績を見ると冬に強かった。
寒い季節には勝率が高くなる。
寒いとスタミナが失われずにすむらしい。
ゴンザレスとの試合は1月。
石松は密かにほくそえんでいた。
しかし1974年1月7日、ゴンザレスが、ロスでトレーニング中に毒蜘蛛に刺されたため、試合を延期したいと申し入れてきた。
試合まで2週間という時だった。
こうして得意の冬の試合はパスされてしまった。
「頭にきたぜ。
俺が絶好調と知ってあの権兵衛は逃げたんだ。
ロスまで行ってぶん殴ってやりたいぜ。
こうなりゃオレはリングネームをスパイダー石松に変えて野郎が日本に来たらブスリと毒針を刺してやる。」
このときのことを思い出すと、エディは涙ぐむ。
「たくさん記者を招いたの。
でも来たのはたった5人よ。
5人。
ガッツ、かわいそうね。
誰もガッツ、勝てない思った。
それで5人しか来なかった。
涙出るよ。」
寂しい光景にヨネクラジムのスタッフはがっかりしたが、独り、ガッツだけは平然としていた。
「来ないのは当然よ。
これまでのオレの実績を考えてみろよ。
オレが勝てると誰が思うものか。」
栃木県上都郡栗屋町という農村の中で最も貧しい農家の次男坊に育ち、中学を出て単身上京、日暮里の弁当屋で働きながらヨネクラジムに入門し、2つの拳だけで這い上がった。
長い下積みをくぐってきたガッツ石松は、無視や冷遇に対する耐性ができあがっていた。
所詮この世は力がすべてなのだ。
閑散とする記者会見パーティーの光景をみながら気にもとめなかった。
「なんつたって実績がなければ誰も相手にしてくれないぜ。
その代わり勝てばこんな狭いスナックなんか足の踏み場もなくなるほど人が詰め掛けるだろう。
それが世の中というもんよ。」
ガッツ石松はよく練習嫌いだといわれた。
確かにロードワークは嫌いだったが、ジムワークは好きで、スパーリングは大好きだった。
ただしあくまで自己流にやった。
ボクサーの三戒、酒、煙草、女も大歓迎だった。
エディはいつもショートホープ、ハイライト、セブンスターを持ち歩くヘビースモーカーだが、ガッツ石松はは煙草をせびった。
「オオ、ボクに煙草くれいうのガッツだけね。」
エディは、そういいながら1本あげた。
そして練習はめいいっぱいやった。
「ガッツ、もういい。
ストップよ。」
エディがそういうほどやった。
「ガッツ、練習キチガイよ。」
エディは徹底的に左を教えた。
試合の延期はむしろラッキーだった。
この間にキャンプを張れたし、エディは左レバーブローを教えることができた。
石松は右は強かったが左は下手だった。
エディの左手のミットを出したまま石松に左ばかり打たせた。
「ミミズだって、体半分ちぎれても、コンチクショーって暴れるでしょ。
もっとガッツがあるところみせてよ。」
左、左、左、左である。
それをバリエーションをつけていく。
左ジャブ、左アッパー、左フック、左ボディ。
ボディは相手のレバー(肝臓)をえぐる角度で打つ。
10発20発と左を打った後、右を1発だけ打たせる。
石松はうれしくて猛烈なパワーで右ストレートをぶち込む。
パンチが生きるようになるまでエディはミットを受け続けた。
ガッツクラスのパンチを受け過ぎると茶碗が持てなくなるがエディはかまわなかった。
閉館したグランドプリンスホテル赤坂(東京都千代田区)
4月4日、 ガッツ石松とエディは赤坂プリンスホテルに入った。
ホテルの脇の坂道で、ガッツ石松の外車がエンジンストップしてしまったとき、エディは試合が近い選手に車を押すなんてさせられないよとウンウンいいながら後ろから車を押した
「ガッツ、車はやっぱり乗るもので押すもんじゃないね。」
やっと動き出した車の助手席で、エディは息を弾ませて笑った。
石松はそんなエディの気持ちに応えたいと思った 。
「エディさん、オレ必ず勝つよ。
相手も人間。
オレのパンチが当たったらKOさ。」
「そうよガッツ。
あんたは強いよ。
勝つ負けるはあんたの気持ちの問題よ。」
過去2度の世界挑戦ではどうせ負けると思い、ろくな練習もせずに乗り込んだ 。
それでもラグナ、デュランという2人の名チャンピオを相手に10Rまで耐えた。
倒れたのはパンチが効いたのではなく 、練習不足によるガス欠でイヤ倒れしたことを本人は自覚している。
今回はたっぷり練習した。
負ける気がしなかった。
一方、試合当日に春闘の交通ゼネストが行われることになり、次々とチケットが払い戻されていき、米倉会長は頭を抱えていた。
ガッツ石松 vs ロドルフォ・ゴンザレス 1
背景には、前年のオイルショックと、それに伴う便乗値上げによる物価の狂乱が、今年まで流れ込み、
生活の危機感の高まったためだった。
しかし夕方になると徐々に交通機関が運行され始め、試合会場の日大講堂には7000人の客が入った。
ゴンザレスは、57戦52勝42KO5敗。
KO率は73.7%。
ボクシングをやる前に殺人の刑で服役したこともあり、さらにリングでも1人対戦相手が死んでいる。
ガッツ石松は、36戦25勝13KO11敗。
KO率36.1%。
19時47分、試合開始のゴングが鳴った。
ガッツは左が速い。
ゴンザレスはボディ狙う。
デュランのボディフックで沈む石松をみて、弱点はボディと研究したようである。
ガッツはボディを狙って上体が低いゴンザレスを左で突く。
元来、石松のボクシングはあまり足を使わず、構えて相手の出鼻をカウンターで迎えるスタイルである。
「柄になく冷静で、悪い言い方をすればセコいボクシング。」
(米倉会長)
ラウンド中盤、ゴンザレスは右クロスで石松をグラつかせた。
1Rが終わりコーナーに帰った石松は、セコンドの米倉会長にクレームを入れた。
「会長!
途中で、足使え、左出せって言ってよ!
オレ、忘れちゃうから。」
3Rゴンザレスは左フックの連打でガッツのボディに入れた。
しかし石松は平然と耐え、逆に左ジャブでゴンザレスの顔面を突いた。
ゴンザレスは右のガードがガラ空きだった。
「ライトを上げろ!」
セコンドが必死にゴンザレスに指示している。
石松はあくまで待ちのスタイルでゴンザレスに攻めさせてカウンターをいれてポイントをとり、ボディを打てば倒れる、石松はペーパーストマックだと信じるゴンザレスはひたすらボディーを狙った。
8R、ゴンザレスはジリジリとガッツをロープに詰めた。
その瞬間、ガッツの左フックがゴンザレスの顔面に入り、間髪いれず右ストレートを突き刺した。
ゴンザレスが、スローに前のめりに崩れていく。
「ウォーー!」
ガッツはニュートラルコーナーの走っていき、右グローブを高く掲げた。
レフリーのカウントが遅い。
後のタイムキーパーの証言では15秒かかっている。
身びいきのロングカウントだろう。
意識朦朧のゴンザレスが立ち上がった。
ガッツ石松が襲いかかるとゴンザレスはヨロヨロと後退し、ガッツのパンチが当たる前に倒れた。
レフリーはこれをスリップと判断。
さらに仰向けになっているゴンザレスを両手を持って引っ張り起こそうとしている。
ルールではレフリーはブレークの時以外選手に触れてはいけない。
「ダウンだ!」
米倉会長が叫び、エディは英語で喚きながらコーナーポストに駆け上がった。
石松は、レフリーが不等にチャンピオンを勝たせようとしていること、このまま続行しても自分の勝ちは動かないことを確信した。
そして自陣のセコンドがリングに入りでもしたら反則負けにされるかもしれないと思った。
石松はニュートラルコーナーから自分の青コーナーに行って叫んだ。
「エディさん、黙って。
大丈夫。
オレ、あいつを殺すから。
必ずぶっ倒すから黙っていて。」
レフリーに起こされたゴンザレスはファイティングポーズをとった。
ガッツ石松は猛然とラッシュするとゴンザレスは崩れ落ちた。
「やったぞ。」
石松は吼えた
(ざまあみろ、このヤロー)
心の中で怒鳴っていた。
帰りの花道でファンに胴上げされた。
控え室で、新チャンピオンは矢継ぎ早に質問を受けた。
「フィニッシュのパンチは覚えてる?」
「もちろん覚えてますよ。
あれがオレがいう幻の右です。」
「あれはストレート?
フック?」
「それがわからないところが幻のパンチでしょう。
あれはいつもはジムで打たない。
出すとパートナーが来なくなっちゃうから。
そのためしょっちゅうパートナー呼んでくれ。
いや相手がつかまらないで会長と喧嘩ですよ。」
石松は少しも疲れていなかった。
これからもう1人相手にして防衛戦やっても大丈夫と思うくらいだった。
スカッとした快勝で舌がよく回転し記者会見はガッツ石松の独演会となった。
この夜、赤坂プリンスホテルで祝勝会が開かれ、その後は遊び仲間と徹夜マージャンに興じ、翌朝6時に妻子のいる我が家へ帰った。
「エディさんが付いてくれなかったら、オレ、世界チャンピオンなんてなれなかったよ 。
エディさんのおかげだ。」