伝説のボクシングトレーナー エディ・タウンゼント 「OK! Come on Boy!」
2016年11月30日 更新

伝説のボクシングトレーナー エディ・タウンゼント 「OK! Come on Boy!」

力道山に見出され来日。 その大きすぎるボクシング愛で、ハンマーパンチ 藤猛、悲運の天才 田辺清、カミソリパンチ 海老原弘幸、天才パンチャー 柴田国明、和製クレイ カシアス内藤、伝説の男 ガッツ石松、エディの秘蔵っ子 村田英次郎、浪速のロッキー 赤井英和、ハンサムボーイ 友利正、天才少年 井岡弘樹など数々のボクサーを育てた伝説のボクシングトレーナー。 毎年、プロアマを問わず、活躍した、また縁の下の力持ちとして貢献したボクシングトレーナーに対して、「エディ・タウンゼント賞」が送られている。

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世界チャンピオン:ガッツ石松の初防衛戦が行われた。
挑戦者は世界ランキング10位のチェリー・ピネダだった。
試合2日前のパレードで、人前が大好きなガッツ石松は、上着を脱ぎ捨て、ハッスルした。
90分のパレードを終えホテルに帰ると、減量前の栄養状態の悪さのせいか風邪を引いていて、注射が打たれた。
試合は凡戦だった。
挑戦者が攻め、チャンピオンは後退しカウンターを狙う。
そんな消極的な展開が淡々と続いた。
エディはイライラした。
「Hey、ガッツ!
あんた負けてるよ。
何やってるの!」
ガッツ石松はハッとした。
「何!
オレ負けてるの?
それ早くいってよ。」
13R、ガッツ石松は遮二無二出て、この攻勢がポイントとなって辛うじてドローとなった。
危ない防衛だった。
おそらく外国での試合ならタイトルを失っていただろう。
11月、ガッツ石松の2度目の防衛戦が迫ってきた。
相手は前WBC世界王者:ロドルフォ・ゴンザレス。
ガッツ石松にタイトルを奪われた張本人との再戦だった。
ゴンザレスは世界3位をキープしていた。
「ワー、エディさん。
もう我慢できないよ。」
「ガッツ、目方落とさないとタイトルとられるよ。」
「オレ、タイトルなんかいらない。」
ボクサーはみな減量苦と戦う宿命にあるが、石松のそれはひどかった。
皮膚はカサカサになり唾も出ない。
仕方なくスイカを少し口に入れてトイレで喉に指を入れて吐き出す。
こんなことの繰り返しだった。

ガッツ石松 vs ロドルフォ・ゴンザレス 2

11月26日、大阪府立体育館。
ガッツ石松の2度目の防衛戦のゴングが鳴った。
1R、ゴンザレスは、前回とはぜんぜん違い、慎重な試合運びで、相手にポイントをとらせない。
ガッツ石松は、常に後退しカウンターを狙うばかり。
消極的な試合だった。
11Rが終わりコーナーの戻ると、石松はクレームをつけた。
「左ジャブ出せ、足使え、頭振って、それをいってよ。」
エディは怒鳴った。
「あんた何いってるの。
あんたこの試合負けてるの。
左ジャブ?、頭?、足?
そんなもの関係ないよ。
よく聞きなさい。
ガッツ、これケンカよ。
あんた得意でしょ?
ケンカよ、ケンカ。」
(おお、そうか!)
急に電源が入った。
エディはガッツ石松の頭を両手でつかんで、グイっとゴンザレスの方にに向けた。
「あいつの顔、よくみろ。
みろ。
これケンカよ。
ケンカよ。」
エディは耳元で何度も怒鳴った。
ガッツ石松の中でムラムラと闘争本能が燃え上がった。
キッとゴンザレスをみると、幸せそうな顔をしている。
腹が立ってきた。
(ようし上等だよ。
このヤロー、ケンカやってやろうじゃないか。)
12R、
(テメエ、クッソー、このヤロー)
ガッツ石松はグローブを胸の前でバシバシ打ち合わせ、なにか口の中でブツブツいっていた。
やる気だ。
ゴンザレスが不用意に詰めてきたところを左フック一閃。
次いで右ストレートを打ち下ろした。
ゴンザレスは顔面がぶち抜かれ、ヨロヨロとリングを横切り後退、反対側のロープへもたれた。
ガッツ石松は、右グローブを刀のように振りかざし突進した。
顔面をカードしロープを背負ったゴンザレスを蛮刀で滅多斬りにした。
ゴンザレスは動かなくなった。
石松はロープに躍り上がり、両手を上げて派手に吼えた。
再び奇跡を起こしたのだ。

エディの秘蔵っ子、アンラッキーマン? 村田英次郎

村田 英次郎 vs 金 栄殖

1978年12月、村田英次郎は金栄植と対戦し、12R判定勝ちし、プロ13戦目で東洋太平洋バンタム級チャンピオンとなった。
1976年、エディは、小田急線下北沢駅を降りて線路沿いに歩いて5分のところにある金子ジムのトレーナーになった。
そして村田英次郎というボクサーに出会った。
村田は父 の影響でテレビのボクシング中継をよくみて村田もボクシングが好きになり、小学6年生になると京都拳闘会に 通うようになった。
父は、自宅の横に四坪ほどの小屋を建て、サンドバッグやパンチングボールをつるして毎日打たせた。
中学校を卒業を控えた村田は、ボクシング雑誌で「合宿所完備」という広告を見つけ、父親とともに上京し金子ジムを訪ねた。
そしてジムの2階に住み込み、ボクシング一色の生活が始まった。
金子会長は、5年計画でモントリオール五輪を目標に、15歳の村田をアマチュアボクサーとして育てる方針をとった
村田は16歳で全日本大会フェザー級で優勝。
1976年のモントリオール五輪代表選手の選考会を兼ねた全日本選手権で決勝まで進出したが、決勝戦で敗れ、日本代表にはなれなかった。
アマチュアで88戦78勝45KORSC10敗と、じっくりアマチュアで基本をマスターした後プロ入り。
デビュー戦を1R57秒KO勝ち。
2戦目もKO勝ち。
3戦目は日本バンタム級チャンピオンの沼田剛とのノンタイトル戦は、沼田の負傷によって8RTKO勝ちした。
4戦目は、三上清隆を1RKO。
この試合からエディが村田の専属となった
エディが真っ先に教えたのは
アマチュア的なアップライトスタイルをプロ的なクラウチングスタイルに変えることだった。
突っ立った上体を前かがみにして攻撃的なスタイルにモデルチェンジした。
次に左を下げさせた。
「エイジロウ。
左は相手を狙っていくの。
ピストルを相手の顔に突きつけるのよ。」
ディフェンス主体からオフェンス主体への転換だった。
そして1978年12月、村田英次郎は金栄植と対戦し、12R判定勝ちし、プロ13戦目で東洋太平洋バンタム級チャンピオンとなった。
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エディと村田はよく一緒に焼き鳥屋に行った。
「ビール一杯はクスリよ。
ただし会長には内緒よ。
シー?」
ある日、エディと村田は、下北沢のハンバーグ屋さんに入った。
そこで村田がうっかりクリームを隣の椅子にこぼしてしまった。
「すいません。」
村田はそういいながらティッシュペーパーで拭いた。
隣の客はそっぽを向いていた。
それをみたエディが突然怒り出した。
「人が謝っているのに、何よ知らんフリして!
冗談じゃないよ!
バッカヤロー!」
「ワーッ!!」
客はと叫びながら店の外へ逃げた。
エディは追いかけた。
村田があわてて店の外へと飛び出していくと、エディはその客の胸ぐらをつかんでパンチを食らわせようとしていた。
村田はそれを止めた。
ルペ・ピントール vs 村田英次郎 (1778422)

1980年、 村田英次郎の世界タイトル初挑戦の時が来た。
相手はルペ・ピントールだった。
村田はこの時点で17戦16勝10KO1分無敗 。
東洋太平洋王者のタイトルを4度防衛していた。
村田は必殺の右カウンターをマスターしていた。
左ジャブ、左ストレートで突き放し、相手が打ってくると右足を1歩引いてかわし、出会い頭に、あるいは相手が打つ寸前、一瞬速く右ストレートを打ち込む。
カウンターは通常の数倍のダメージとなる。
ピントールは左ボディフックが強い。
エディは、ピントールがボディを狙ってガードを下げたとき、ガラ空きの顔面に右ストレートを絶好のタイミングで当てられると読んでいた。
6月11日10時、後楽園ホールの5階で計量が行われた。
両者は共にバンタム級のウェイトリミット53.5kgピッタリだった。
計量後、村田はエディが持参したスープを紙コップで飲み、リンゴを1つかじった。
そして本格的な食事をするために車で後楽園ホールの地下駐車場から赤坂プリンスホテルに移動した。
そして17時30分、再び後楽園ホールに戻り、控え室に入り、6000人のコールの中、ガードマンに挟まれながらリングに上がった。

ルペ・ピントール vs 村田英次郎

1R、レフリーの注意を聞いて分かれた両者は、ゴングが鳴ると再びリング中央に進み出てグラブを合わせてから激しく打ち合った。
2R、激しい打ち合いが続き、ピントールはベタ足ながらスタンスを大きくとって、ガードを固めジリジリと前に出る。
4R、村田の右カウンターがロープ際で炸裂。
ピントールの腰が沈みかけた。
しかしピントールは普段から標高2200mの高地で暮らすメキシカンであり、その上、トレーニングは標高2400mで行ってきた。
富士山の7合目で暮らしてきた男の肺活量とスタミナは無限だった。
8R、ピントールがいきなり放つ左ストレートが村田の顎を突き上げる。
素早く左を踏み出し、上体を沈め低い位置から、急にせり上がってくるストレート。
村田の体がのけ反った。
ピントールは続けて左のレバー・パンチを脇腹に入れた。
満身の力を込めて、アッパー気味にえぐるこのパンチを村田は必死でかわした。
9R、すさまじい打ち合いの末、村田が右目上、次いで左目上を切って出血。
紙一重のタイミングでパンチを見切るタイプのボクサーにとって目測は命。
村田は両方の目から真っ赤な涙を流しながらも本能でパンチを打ちつづけた。
ピントールも右目から血が噴き出している。
両者が打ち合うたびに汗と血のしぶきが散った。
11R、ピントールの左目が切れた。
それでもピントールはストレート、フックを繰り出す。
止まっていた村田の傷がまたパックリと口をあけて血が流れ出した。
打たれても打たれてもピントールはガードを固めて前進する。
村田の動きが悪い。
14R、
「エイジロウ。
このラウンドからチャンピオンよ。」
エディはそういって村田を送り出した。
村田のボディにのダメージが残っていた。
ベタ足のピントールの猛攻は、回り込む村田にピッタリとくっつくように追いこんだ。
しかも左右のアッパーを連打しながらバランスが少しも崩れない。
村田は、クリンチに持ち込んで、レフリーがブレイクをかけた。
必死に立っている村田にピントールがフィニッシュパンチを放った瞬間、レフリーがストップをかけ、 村田の目をドクターにみせた。
危機を脱しただけでなく、この数十秒の 時間が村田の意識を回復させ、試合再開後、村田の猛ラッシュが展開された。
15R、村田の猛反撃が続いた。
驚くべき精神力でパンチを連打しピントールが後退させた。
奇跡のようなラッシュに 酔いしれる歓声。
しかしドラマの終わりを告げるゴングが鳴った。
総立ちの観衆から惜しみない拍手と歓声が沸き上がった。
エディは村田の全身をタオルで拭いながらいった。
「ドロー」
レフリーがコールし、両選手の手を挙げた。
引き分けではタイトルは動かない。
ピントールは2度目の防衛に成功した。
ジャッジペーパーは、13Rまでドロー。
14R、ピントール。
15R、村田。
エディが14ラウンド開始時にハッパをかけたのは恐ろしく正確だった。
もし14Rをとるかイーブンにしていれば、村田は世界チャンピオンだった。

ジェフ・チャンドラー vs 村田英次郎 1

1981年4月5日、WBA世界チャンピオン:ジェフ・チャンドラーに、村田英次郎が挑戦した。
1R、村田は強烈な右カウンターが抜群のタイミングで決めたが、王者に凌がれると、試合は一進一退となった。
何度か単発でクリーンヒットするものの、村田の強打を警戒するチャンドラーの老獪なクリンチワーク、ホールドに後続打を寸断され、なかなか決定的なポイントを奪えず、村田の強打とチャンドラーの細かい連打で白熱した試合は、ついに15R終了のゴングを聞くこととなった。
有効打と手数の争いになったが、判定は、ジャッジ三者三様のドローだった。

ジェフ・チャンドラー vs 村田英次郎 2

1981年12月10日、アメリカニュージャージー州アトランティックシティのサンズホテルで、再びWBA世界チャンピオン:ジェフ・チャンドラーに村田英次郎が挑戦した。
しかし村田は前回の善戦がウソのように打ち込まれた。
13R、チャンドラーが村田を2度のダウンさせレフリーが試合をストップした。
村田は救急車で異国の病院に運び込まれた。
1983年9月11日、後楽園ホールでWBA世界チャンピオン:ジェフ・チャンドラーに村田英次郎が挑戦した。
両者の対決は3度目である。
村田英次郎は、東洋太平洋の王座を12度防衛し、常に世界ランキング1位をキープしながら、世界チャンピオンには1度もなれていない。
対するチャンドラーは7度、世界タイトルの防衛を重ねていた。
2R、チャンドラーが村田をダウンさせ、3Rにもチャンドラーが村田を再びダウンさせた。
10R、チャンドラーが村田を3度目のダウンでノックアウトした。
村田はこの試合を最後に引退した。
「いくら自分が強くても、その時のチャンピオンがそれ以上に強かったら永遠にチャンピオンにはなれない。
それがボクシングというものですよ。」
殺人パンチを持つピントール。
スピード、テクニック、パンチ力、ディフェンス、ファイト、どれをとっても超一流だったチャンドラー。
この2人がいた時代に生まれたことが村田の悲運だったのかもしれない。

浪速のロッキー 赤井英和

赤井英和 1RKO

1981年、大阪市西成区天下茶屋の駅前商店街の一角に、愛寿ジム(後のグリーンツダジム)が開設された。
ジムの会長は津田博明。
看板選手は赤井英和 。
後に浪速のロッキーと呼ばれ関西にボクシングブームを巻き起こし、人気絶頂となるボクサーである。
津田会長は、かつてチャンピオン:ガッツ石松が挑戦者:ロドルフォ・ゴンザレスを大阪府立体育館で迎え撃ったとき、大阪のジムでガッツとエディがトレーニングしているのをみていた。
エディは石松のパンチをミットで受けながら叫んだ。
「オオ!
そのパンチで試合は終わりよ。」
「そのパンチ以外はいらないよ。」
エディは選手のいい所を徹底して褒めた。
津田会長は、これは選手にとって凄い自信になるはずだと感心した。
(この試合は、ガッツ石松がゴンザレスを12Rにノックアウトして2度目の防衛に成功した。)
津田会長はエディに惚れ込み、しばしば赤井を上京させ、エディに短期の臨時コーチを頼む仲になった。
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