伝説のボクシングトレーナー エディ・タウンゼント 「OK! Come on Boy!」
2016年11月30日 更新

伝説のボクシングトレーナー エディ・タウンゼント 「OK! Come on Boy!」

力道山に見出され来日。 その大きすぎるボクシング愛で、ハンマーパンチ 藤猛、悲運の天才 田辺清、カミソリパンチ 海老原弘幸、天才パンチャー 柴田国明、和製クレイ カシアス内藤、伝説の男 ガッツ石松、エディの秘蔵っ子 村田英次郎、浪速のロッキー 赤井英和、ハンサムボーイ 友利正、天才少年 井岡弘樹など数々のボクサーを育てた伝説のボクシングトレーナー。 毎年、プロアマを問わず、活躍した、また縁の下の力持ちとして貢献したボクシングトレーナーに対して、「エディ・タウンゼント賞」が送られている。

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赤井英和 と エディ・タウンゼント - エルペディア【Wikipedia】 (1782109)

赤井英和がモスクワオリンピックの日本代表候補となったとき、その強化合宿はアマチュア連盟の方針でプロのトレーナーが採用されることとなり、エディに委託された。
「左フックは下から上へアッパー気味に打つのよ。
こうよ!」
エディは自らポーズしてみせた。
「この左フック打てたら右手お尻かいててもいいよ。」
練習中、赤井が口から胃袋が吐きそうなくらいハードな状態になると、エディは魔法をつかって、その力を引き出した。
「アカイ、もう1発。
もう1発、力いっぱい。
これでもう相手倒れる。
疲れてる、 チャンス。」
赤井はエディの気さくでユーモラスな人柄に惹かれた。
「エディさんは俺の高校時代はもう雲の上の人でした。
たくさんチャンピオンをつくっている名トレーナーですからね。
大学1年のときキングスカップ(タイ国王が各国のボクサーを集めて開催した大会)へ行くことになり、そのときアマチュアボクシング連盟がオリンピック強化策としてアマとプロの交流を図ろやないか。
ついてはプロのトレーナーに教えに来てもらおうということで、エディさんに白羽の矢が立ったんです。
強化合宿で初めてエディさんにミットを受けてもらいました。
うれしかった。
エディさん、暗示をかける名人です。
ボクサーを絶対けなしません。
トレーナーには『アホンダラ、ボケ、打たんかい、アホンダラ』 と人をアホンダラ教の教徒みたいに言う奴がいますが、エディさんは違います。
パンチをミットで受けながら
「Oh、ナイス。
ナイスパンチ。
それよ、それなのよ。」
「はい(お、そうかな)」
「でもネ、アカイ、もうちょっとここで強く打ったらもっといいよ。」
こういわれるともう力がわくんです。
エディさんにミット持ってもらったら確かに強うなると思います。
チャンピオンが生まれるわけですわ。
練習が終わると今日はエディさんに稽古つけてもろてちょっと強くなったなと思ってしまうんですよ。
片言の日本語でジョーク入れながらの練習が楽しくてしょうがないんですよ。
10歳くらいから半世紀以上ボクシングやってらっしゃるんやから、そら重みが違いますわ。
とにかくエディさんの選手に暗示をかけて盛り立ててくれる上手さ、ほめることで力を引き出そうとするのは、凡人では到底まねのできない名人芸です。」

赤井英和の卒業文集

赤井英和は、中学時代からかなりヤンチャで、喧嘩に負けた事がなく、大阪一帯にその悪名は響き渡っていた。
自分より弱い者には全く手は出さず
「ここで一番強いの誰や!
勝負せい!」
と道場破り的な喧嘩を繰り返した。
その一方で友人も多く、中学卒業時の文集には37名の友人のおかげで充実した3年間を送れた事に対する感謝の気持ちを著した。

トミーズ雅&赤井 初めてのサシ飲み

住吉高校を受験した赤井英和を、同じく受験しに来ていたトミーズ雅が目撃した。
優等生が集まる名門校の受験会場の中、赤井はただ1人、不良丸出しの学ラン姿で受験に来ており、机の上に足を投げ出し、周りを威嚇しながら弁当を食べていたので相当目立っていた。
お互い血気盛んな2人はメンチを切り合い、一触即発の危機となるが、受験会場ということもあって喧嘩は回避された。
後日、雅はそれが赤井であったことを知り「喧嘩せんで良かった」と安心すると同時に赤井の不合格を祈った。
合格発表の際、自分の受験番号よりも先に赤井の受験番号を探し、その不合格を知り、ホッと胸をなで下ろした。
後に雅も赤井と同じくボクサーへの道を歩み、S(スーパー)ウェルター級の日本ランカーとなった。
1977年4月にプロデビューし、デビュー以来5連続KOで西日本新人王獲得。
全日本決勝でシーザー佐々木(国際)選手に敗れた。
80年10月に関西重量級のホープ:千里馬啓徳(神戸)選手を6回KOで切って落とし貫禄をみせた。
ラストファイトは81年5月、掘畑道弘選手の持つ日本Sウェルター級王座への挑戦。
掘畑は関西の重量級には珍しいサウスポーで、前王者に3連敗を喫しながらも4度目の対戦でKO勝ちし念願の王座を手に入れた苦労人だった。
試合は雅の地元大阪での挑戦であったが、地力に差があり、チャンピオン:掘畑が5度目の防衛に成功した。
そして雅、北村雅英選手の夢は終わった。

赤井英和ハイライトpart 1/3

住吉高校を落ちた赤井英和は、浪速高等学校に入学し、中学の先輩に強引にボクシング部へ入れられた。
3年生時にインターハイのライトウェルター級優勝、アジアジュニアアマチュアボクシング選手権優勝。
高校卒業後は近畿大学に進学。
当時の恋人の影響で茶道部にも在籍した。
モスクワオリンピックでも日本代表は確実視されていたが、米ソ冷戦のあおりを受け日本は出場辞退。
赤井もオリンピックの道は断念せざる得なかった。
その後、大学生のままプロボクサーに転向。
目標はもちろん世界チャンピオンだった。
「みんな笑いました。
世界タイトルって大きい有名ジムがスポンサーつけてやるようなことです。
僕の入ったのは愛寿ジムっていうちっこいジムでした。
会長1人と選手は僕1人。
文化住宅の1階を改装して、会長が日曜大工でポール立てて縄張って、「そっちの壁の向こうで病気のおばあちゃん寝てるからもたれるなっ」ていわれるような。
会長はタクシーの運転手さんで2日にいっぺん乗車明けの日に練習みてくれました。
それ以外は1人で・・・」
小さな無名ジムが世界を目指すため、津田会長と赤井英和がとった手段はマスコミを味方につけることだった。
「マスコミは記録が好きや。…
よしKO記録や! って。
1試合目からずっと、KOし続けたら、マスコミも気にするやろ。」
見せるために赤井はボクシングスタイルを変えた。
相手と距離を保って的確なパンチを繰り出すボクシングから、前に出て攻め続けるファイターへ。
強烈なパンチで、豪快なKOの山を築いた。
もちろんビック・マウスだった。
「メンチ切ったら相手がビビったから勝つと思った。」
「今日はテレビ流すいうんで散発してきたんです。
すいません、テレビカメラどこですか?」
「KOの秘訣ですか?
やはりパンチのスピード、タイミング、それにクスリです。」
など試合後の面白コメントも話題となった。
8戦目からはテレビ中継が入り、11戦目のときにジムにスポンサーがつき名前がグリーンツダジムとなった。
連続KO記録は12まで伸びた。
伏兵・知念清太郎(京浜川崎)選手に連続KO記録は破られたが、14連勝13KOの勢いを駆って、日本、東洋を飛びこえての世界挑戦を果たした。
ついたニックネームは「浪速のロッキー」
しかし試合相手の選択が、無名または格下の選手が多かったことから、その実力には疑問符をつける人もいた。

ブルース・カリー vs 赤井英和

赤井英和が初めて世界タイトルに挑んだ。
相手はWBC世界スーパーライト級チャンピオン:ブルース・カリー。
試合前日、挑戦者の赤井英和は記者会見で宣言した。
「7月7日やから7回に倒してパチンコのフィーバーにしたる。」
1983年7月7日、WBC世界Jウエルター級タイトルマッチ、ブルース・カリー vs 赤井英和。
赤井の母校である近大の記念会館に12000人の大観衆が入った。
「目標にしてた世界タイトル。
1万何千人のお客が入って、知り合いもいっぱい来てる。
その控え室に入って花道から入場してきたときに、会長とそれまで2人でずっとやってきた夢を達成してしまったんですわ。
リング上がってそのまま帰ってもええくらいやった。
それ以上の、世界チャンピオンっていうことを思いつけなかったんです。
やってみて思ったんです。
俺と世界チャンピオンの差ってそんなになかったな。
あれやったら勝ってたぞ。」
1R、開始早々、カリーはグローブタッチを挑戦者に求めたが、赤井は罰当たりにも無視して先制攻撃を見舞った。
このラウンドを含め、赤井は一貫して捨て身のラッシュファイトを敢行していく。
6R、ラッシュし続ける赤井の左フックがカリーの顎をとらえた。
カリーは黒いマウスピースをむき出しになり、ロープまで吹っ飛んだ。
満場総立ちになり。
「赤井、そこだ!
行けぇ~」
テレビ中継の解説をつとめていたガッツ石松は、マイクの音声が飛ぶほどの音量で叫んだ。
しかしカリーはしのいだ。
7R、赤井の動きが急に悪化した。
カリーは反撃に転じ、赤井に容赦ないパンチの雨を降らせた。
赤井はこの豪雨の中に沈んだ。
皮肉にもKO予告した7月7日の7Rだった。

赤井英和ハイライトpart 3/3 再起~引退

赤井は無類のファイタータイプだった。
エディは赤井に様々なことを教えた。
赤井はスタンスをひろくして踏ん張ってパンチを打つ。
「アカイ、それじゃパンチ届かないよ。
もっとスタンス狭めて。
前後左右に動いて打つの。」
「アカイ、スミマセン、スミマセン言いながら頭下げて入るの。」
これは相手の内懐に入るときは頭を波打たせて入ることを表現したもの。
赤井は毎日教えられることをノートにメモして覚えた。
それは赤井にとって宝物のようなものだった 。
世界初挑戦で苦杯をなめた赤井の再起第1戦は、タフで鳴る新井容日だった 。
これを10R判定で破った。
続いてハンマー糸井、大月竜太郎、塚田敬と3連続KO 。
赤井は順調に勝ち続けた。
津田会長は再び世界への夢を見始めた。
しかしある夜、エディが津田会長にムッとした表情でいった。
「アカイにもっと早く会いたかったよ。」
「それどういう意味?」
「ボクね。
アカイに頼むから走ってくれといって土下座できないよ。
わかるでしょ?」
赤井は人気がありすぎた。
常にファンが取り巻き、密かにトレーニングを手抜きし、酒と女の誘惑におぼれていた。
赤井は優れた才能は持っているが、ボクサーとしては女性などの誘惑に弱すぎた。
1984年9月5日、赤井英和 vs ウィリアム・マルディゾンはひどい凡戦だった。
自分に失望したのか、直後、赤井英和は、津田会長に内容証明つきの引退届けを出して行方をくらませた。
人気ボクサーの失踪には様々な憶測が飛び交ったが、数日後、津田会長の間で話し合いが持たれ、赤井は再び世界を目指し走り出した。
またこの頃、赤井は結婚した上、新妻の腹には新しい生命が宿っていた。
赤井は世界前哨戦として、大阪府立体育館で、大和田正春を迎え、チューンアップした自分を見せつけ世界戦へ弾みをつけようとした。
大和田戦より前に、すでに津田会長は、アメリカにわたって大物プロモーター:ドン・キングに渡りをつけた。
WBC世界Jウエルター級チャンピオン:ビル・コステロに日本で挑戦を受けてもらう為、10万ドル(2500万円)のアドバンス(前渡し金)を支払い、タイトルマッチの約束を取りつけた。
「(大和田正春との)試合が済んだ6月にはもう1度世界タイトルへ挑む段取りやった。
今度こそチャンピオンベルトを腰に巻こうと思ってました。
そして対戦を選んだ相手が日本ウエルター級7位にいた大和田正春。
東京立川生まれで父親はアメリカ人。
褐色の肌にひげ面、剃髪で精悍な風貌をつくっていました。
戦績8勝8敗1分が示す通り、俺からみれば、センスはあるけど顎が弱い一発屋という印象でした。
まして俺は世界Jウエルター級8位。
自惚れやないけど戦う前から俺の優位を疑う者はいませんでした。
誰もが日本と世界の差に格段の開きがあることを知っていたわけです。
大和田は咬ませ犬といわれていました。」
大和田正春は、在日米軍兵士の父と日本人の母との間に生まれ、中学卒業後、夜間高校に通いながら自動車メーカーの下請け会社で部品やボディ等のメッキ加工に従事してきた。
それ以来ずっとメッキ一筋で、「センター長」という役職で活躍していた。
ボクシングでは、伝説の王者:マービン・ハグラーと風貌が似ていたため、「和製ハグラー」と呼ばれた。
「現役時代、自分以外はみんな敵だと思っていた。
スパーリングでも手抜きをしたことはない。
誰とやる時も、いつも倒そうと思ってやっていた。」
大和田はのパンチ力は素晴らしく、KO率が高い。
その反面に顎が打たれ弱く、常に倒し倒されのボクシングキャリアとなった。
 (1788566)

1985年2月5日、赤井英和(世界Jウエルター級8位)vs大和田正春(日本ウエルター級7位)戦当日。
朝、赤井は規定のウエイトを300gオーバーしていた。
ガムを嚊んで唾液を牛乳瓶1.5本分出した。
9時30分、計量が行われた。
赤井、66.11㎏。
大和田、65.66㎏。
16時50分、大阪の街がうっすら暗くなってきた頃、赤井英和は赤いジャージ姿で会場に入った。
そしてABC放送(朝日放送)のインタビューを受けた。
「今日の試合で世界戦に向けて弾みつけなきゃいけませんね?」
「ええそうですね。」
「もう思いは今日より世界ですか?」
「ええ。
もうこの6月にでもいうてるんですけど、まあとにかく今日の試合を一生懸命ファイトして成果をみてもらいたいという気持ちでずっとトレーニングしてきましたから。
今日はまず気持ちのいいスカッとした試合で飾りたいと思ってます。」
「何ラウンドで倒します?」
「やはり前半ですね。」
控え室で、赤井は鏡に向かって軽い動きをはじめた。
エディは赤井の拳にバンテージを巻き、その上に丁寧にテーピングを施した。
テーピングを終えた拳をコミッショナーと敵側の人間が触って確認し、検査済みのJBCというサインがされた。
鼻柱、額、頬骨などにワセリンを塗り、ノーファールカップをつけ、白地の赤のラインの入ったトランクスをはいた。
ガウンも白地に赤ラインで、背中に松の木に鶴が羽を広げて舞い降りる刺繍が入っていた。
いよいよ係員が時間を告げに来て、控え室から狭い通路を歩いて入場口まで来ると、大和田の入場BGMが聞こえてきた。
赤井は1、2度、声を上げて自ら気合を入れた
「最初何イク?
チョット見る?
でもチャンスがあったらネ・・・」
エディが赤井の耳元でささやいた。
「行くよ、最初から。」
「OK、イク。
でもね、こうじゃないよ。
大きくね。」
そういいながらエディは、身体を屈めて左右に強く身体を振ってウィービングを大きくしろとアドバイスした。
会場にロッキーのテーマが流れ出した。
「さあ、行こ」
先頭の竹本トレーナーが場内に歩み出した。
「OK!
Come on Boy!」
花道に入ると、凄まじい声援と紙吹雪とカメラのフラッシュが舞い、太鼓の音が鳴り響いた。
「凄いネー」
エディは笑った。
赤井がリングに上がると一際歓声が沸き立ってリングアナの声をかき消した。
(もし赤井に勝ったら無事にここから帰れるのか)
大和田は思った 。
「本日のセミファイナル10回戦を行います。
赤コーナー、WBCジュニアウエルター級第8位、145パウンド4分の3、グリーンツダ所属 、赤井英和ぅー!」
赤井が両手を挙げたると観客がドッと沸いた。
「青コーナー、144パウンド4分の3、角海老宝石所属、大和田正春ゥー!」
それまでせわしく動いていた大和田は身体を止めてグローブで赤井を指した。
両者はレフリーの注意を聞きにリング中央へ集まった。
赤井は大和田の眼をにらんだ。
後にわかったことだが、赤井はいつもは相手の眼などみず、わざとそらしていた。
それがこの試合に限って相手の眼を穴の開くほどにらみつけた。
大和田も敵意丸出しで、両者額を突き寄せたまま微動だにしない。
「こいつや、こいつ、このアホ、どついたる!」
エディも煽った。
「なんでもないアカイ、なんでもない。
このヤロウ、ブッ飛ばせよ。
アカイ、ブッ飛ばせよ!」
そして赤井はマウスピースでふさがれた口を開き、ハッキリといった。
「このアホンダラ。」

赤井英和 vs 大和田正春

19時41分35秒にゴングが鳴った。
試合は大和田のジャブで始まり、赤井も果敢に攻めた。
「ジャブ突いて、ジャブ。」
大和田のセコンド、角海老宝石ジムの鈴木会長がしきりに声を出した。
赤井が中に入ってくると、大和田は巧みにクリンチした。
エディは速射砲のように指示を飛ばした。
「Come on、アカイ、手ェ出すの。」
「もっと入るノ、アカイ、入るんだったらもっと入るノ。」
「アカイ、左から!ジャブ!」
両者の左が相打ちになった後にゴングが鳴った。
テレビ中継の解説者の採点は10対10のイーブンだった。
2R、
「走って、走って打つノ」
エディに背中を押され赤井は駆け出た。
大和田は回りこんでその勢いを外した。
「下、アカイ、下」
エディはよく動く顔面よりボディを狙えと指示した。
1分18秒が経過した時、エディがポツリつぶやいた。
「アカイ負けるネ。
この試合・・・」
4R、赤井はゴングと共に走って先制の1発を見舞おうとした。
大和田はそれを難なく左に逃げ、逆に左を2発赤井に食らわせた。
それでも赤井は左右のフックで大和田をロープ際まで追い込んだ。
そしてフィニッシュブローを振り切った 。
大和田はフラつきながらも赤井の強打を耐え、逆に打ち返した。
赤井は絶好のチャンスを逃した。
再び両者はリング中央で向かい合った。
瞬間、大和田の左フックが赤井にクリーンヒットし出鼻をくじいた。
さらにノーガードとなった赤井の顔面に左ストレート。
赤井はノーガードの上に棒立ちになった。
大和田は左フックで赤井はグラリとさせ、すかさず左ストレート。
これがカウンター気味に入って赤井はバランスを崩し後方へつんのめった。
「ガード上げて、ガード上げて」
大和田は容赦ない右ストレートを赤井の顔面へ刺し、赤井はダウンした。
この時、ロープ際にダウンした際、後頭部が最下段のロープにぶつかった。
レフリーがカウントする最中、赤井は(何が起こったんや)という顔で、しりもちをついた。
そしてノロノロと立ち上がった。
カウントは8だった。
場内は信じられないシーンに静まり返った。
「顎引いて、動いて、動いて。」
エディはそう指示したが、赤井は逃げずベタベタの足で前へ進んでいった。
ベタベタの足ででフラフラしながらも赤井はパンチで大和田をロープまで押し込んだ。
ここでラウンド終了のゴングが鳴った。
「座って!」
エディは静かに、しかし厳しい声でいった。
「Come on、Come on、アカイ。」
赤井は反応しなかった。
「気持ちやで、気持ち」
竹本トレーナーがいった。
「アカイ、聞こえる?
あんた勝つよ。
Come on、アカイ。
あんた、男よ」
7R、判定で勝利がないことは明らかだったが、赤井には1発がある。
ロープを背にした大和田に赤井の右ストレートが入った。
しかし大和田は即座に左2発を返し左へ回り込んで身体を入れ替えた。
「大和田、チャンス。」
青コーナーが色めき立った。
大和田の右、左が赤井の顔面にヒット。
ノーガードになった赤井に左フック、左ストレートが炸裂した。
赤井は身体を弓なりにのけぞり、そして前へゆっくり倒れようとしたとき、大和田のラストパンチが赤井の顔面をとらえた。
赤井が崩れるようにダウンした。
4つんばいになって身を起こそうとするがすぐに動けなくなった。
「ダメ、ダメ、ダメ・・」
エディはタオルを入れた。
大和田はリングに仰向けになって喜んだ。
リングに寝たままの赤井の瞳孔をチェックしたドクターが担架を要請した。
 (1789309)

20時30分、赤井英和は、救急車で富永脳外科病院に担ぎ込まれた。
担架の赤井は、顔の色を失い、鼻や口は開き、眼はまったく生気がなく、髪は逆立ち、唇は土気色で、もちろん意識はなかった。
救急連絡で富永院長が駆けつけた。
「CTスキャンの判定で脳の内出血がみられました。
さらに本人を診断すると、右の瞳孔が9mm、左が2mmになっていて、右の瞳孔が散大していました。
それに加えて右腕がねじ曲がっていた。
これも危険な状態です。
緊急に手術の必要があると判断しました。
診断は右の急性硬膜下血腫、脳挫傷、深昏睡。
硬膜下血腫とは、脳を包む硬膜と蜘網膜の間に出血した血の塊のこと。
赤井の場合、ダウンしてから数十分後、迅速に運ばれてきたのに手術の必要があるということは、かなり太い血管が切れていたということになる。
脳挫傷とは、脳味噌を塩だとすればごま塩のゴマのような細かい出血が広がった部分のこと。
正常な脳は豆腐が水に浮いたような状態で頭部に納まっているが、パンチなどの急激な衝撃を頭部が受けると脳が頭蓋骨にぶつかって出血するのだ。
深昏睡とは、叩いてもつねっても反応を示さない、いうなれば死の1歩手前。
「脳挫傷部分は脳味噌が破壊されおかゆ状態になっている状態、そうなるには1撃ではなく何度も激しいパンチを食わなければそうはならない。」
富永医院長は説明した。
そして赤井の生と死の確立は2対8といった。
たとえ生命をとりとめたとしても植物状態は免れないという。
21時52分、緊急手術が始まった。
医師は手術室に、津田会長と赤井の兄が呼び入れ、赤井の頭部をみせた。
患者が死ぬ危険性が高い場合に後のトラブルを防ぐためだった。
手術は頭蓋骨をドリルで手のひら大に開き、右脳の内出血を吸入、除去するというものだった。
ドアの外では関係者が涙を流し奇跡を祈った。
赤井の母は家で灯明を上げて手を合わせた。
「神様、助けて。
One More Chance.」
エディも祈った。
「会長、アカイはいま罰金を払っているの。」
エディは津田会長にいった。
ロードワークをサボり、節制を忘れた赤井が今彼なりの報いを果たしている。
エディはそう思ったのかも知れない。
2月6日2時57分、5時間あまりの大手術が終わった。
急激な出血の限度は50ccにも関わらず、赤井の血腫は70ccもあった。
医師はなんとか50ccを取り除くことに成功した。
生死の確立は5分5分にまで挽回した。
手術後は脳が水分を吸収し膨張し脳圧が上がるため、それを緩和するため、しばらく骨を外したままにされた。
8時、いきなり赤井は意識を取り戻した。
「小便がしたい。」
そういって点滴の管や脳波の計器のコードをつけたまま起き上がろうとした。
周囲はあわてて赤井に覆いかぶさって押さえつけた。
「何や。
どないしたんや。」
赤井はそういって暴れた。
ベッドに拘束具がつけられた。
入院後2週間は少しおかしかった。
突然4年前のことをいい出したり、「オーイ変えるぞ」と帰り支度をはじめたり、友達が来ると「よく来てくれた」と泣き出したり・・・
「脳をいじくった人間は感情の起伏が激しくなるんですわ。
両手両足をベッドにくくられているから口で抵抗しよるんです。
「赤井五郎死ね」とか「帰れ」とか、もうボロカスに言われました。」
(父:赤井五郎)
「お父ちゃん、堪忍や。
俺にはもうすぐ大和田と試合があるという記憶だけしかなかった。
何で練習もせずこんなところで身体に管つけて何やってんのやと思った。
家族に聞いてもみんなちょっとずつ言うことが違う。
周りに聞いても誰もホントとのこと教えてくれない。
ベッドの上で「お母ちゃんサッサとケガ治して次がんばるからな」といったらお母ちゃんがうつむいて泣いてる。
なんでやろ・・・おかしいなあ。
それでもとにかく養生に専念したんです。
その間しょうもないことやけど、俺を天下無敵の超人ハルクみたいに改造してくれないかなぁと思ってました。
昔エイトマンの透視図を見たことがあるんです。
それと同じような感じで俺も横たわっていましたからね。
頭蓋骨外してたから、便所でずっこけて脳味噌出てもたらどないなるんやろ。
脳味噌外してヌカ味噌入れたらどうなるんやろ。
蟹味噌入れたら泡吹くんやろか。
いっそ味噌の代わりに糞入れたら体臭が気になるんやろか。
なんてしょうもないことばかり浮かんできました。
コラっ!
ダレが後遺症ぢゃ!」
実際、赤井は自分の脳を触った。
触ると強烈な吐き気を催した。
その理由が解らず何度も触っては吐き気を催した。

赤井英和神話①「自分の脳を触ってオエっ!」

入院30日後、リハビリが開始された。
赤井英和はリハビリ優等生だった。
その回復力は凄まじく、周囲が奇跡だ、何という生命力だと舌を巻くほどだった。
「リングが待ってる。
うかうかしてられへん。
大和田をこてんぱんにいてもうたるねん。」
この焦りにも似た気持ちと鍛えられた肉体が回復を早めたのだろう。
しかし赤井は自分が2度とリングに立てない身体になっていることを知らされていなかった。
「1度も切れも割れもしてない私らの頭が、仮に10の衝撃で頭蓋骨が割れるとしたら、それが今の英和では5か6で割れる。
骨を継いだところが1番もろいんですわ」
(父:赤井五郎)
退院10日前になって、初めて赤井は矢野文雄後援会長から、
・大和田との試合はすでに行われ赤井が負けたこと
・その試合でケガを負って入院したこと
を知らされた。
数日後、赤井は外泊許可をとり、家に帰り、即座に大和田戦のビデオをみた。
(まあええか。
たかが1敗や。
退院したらもう1回大和田とやってあいつの頭かち割って俺と同じ目にあわせてやる。)
退院身近となったある日、担当医が赤井に対して、再びボクサーとしてリングに立てないことを医学的な説明を加えながら言い渡した。
赤井は愕然となった。
「嘘やろ?という気持ちがあり、俺の人生そのものを奪われた気がして、説明してくれてる先生を無性に殴り倒したい気持ちにかられました。
もちろんじっと抑えましたけど・・・」
2月16日、赤井英和の事故を重く見た日本プロボクシング協会の木村七郎会長は、全選手にCTスキャン検査を義務付ける事をJBCに進言した。
そして延べ800人以上のプロボクサーのCT検査が実施された。
現在ではプロテスト受験時にCTスキャンが義務付けられている。
3月31日、赤井英和と富永院長が並んで記者会見が行われた。
「ほぼ100%治りました。
ただ悲しむべきことは、我々がリング上の赤井さんの勇姿を見ることは2度とないことです。
・・・・
レフリーがどの時点で試合を止めるかが問題となりますね。
人道的な立場からいえばノックダウンしたらその場でストップすべきでしょう。
赤井さんの場合は4Rに喫したダウン、あそこで止めるべきではなかったかと思いますね。
そうすればもう1度リングに立てたかもしれないのですから。
あくまで結果論ですが・・・」
「俺は生死をさまよっていた時のこと何も思い出されへんのやけど、1点だけ鮮明に憶えていることがある。
霞がかかったヒンヤリした薄明かりの中を俺は歩いておった。
どこからともなく笛の音が流れてくるので、その笛のほうに歩いていった。
すると1本の川に出ます。
川岸には赤い花がいっぱい咲いていました。
気がつくと笛の音だと思っていたのは人の声でした。
目を凝らすと向こう岸に白い着物を着た人が大勢いて手招きしてるんです。
あ、俺のこと呼んでいると思って・・・」
「ホント!?」
「ウソでんがな。(ケケッインタービューのおっさんひっくりがえりよったワイ)」
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プロテストは2回目で合格。世界チャンピオンになるまで10敗以上。そして層の厚いライト級で世界タイトルを5度防衛。間違いなく偉大なボクサーである。
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ほんと!?元ヤンの男性芸能人!!衝撃の喧嘩エピソード!!

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元ヤンで知られる多くの男性芸能人。若い頃の彼らは喧嘩に明け暮れ、ヤンチャなエピソードの宝庫でもあります。今ならコンプライアンス的にきっとNG!!どういった喧嘩エピソードがあるのか迫ります。
【24時間テレビ・歴代マラソンランナー】放送内にゴールできなかった人って?

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24時間テレビのチャリティーマラソン。1992年、間寛平の途中棄権から始まったこのマラソンの歴代ランナーを振り返る!
ヤマダゴロー | 196,173 view
獣神サンダーライガー  山田恵一がライガーのマスクをかぶるまで

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獣神サンダーライガーの中身は山田さんは、超一途、超根アカ、超ピュア、超ポジティブなナイスガイ。
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