熱き男のもとに誕生した 芦毛の子
1984年(昭和59年)5月23日、北海道・錦野牧場に、母グリーンシャトー、父シービークロスという平凡な血統の元、1頭のサラブレッドが誕生します。
そもそも、大きな実績のなかった父シービークロスが種牡馬になれたのも、錦野牧場長・錦野昌章の存在があったからなのです。
シービークロスの走り・末脚に惚れこんだ錦野氏が、種牡馬にするために様々な人・組織に掛け合い、奔走し、強い信念と熱き情熱を注いだからなのです。彼なくして種牡馬シービークロスは誕生していませんでした。そんな思いの中誕生したのが、「タマモクロス」でした。
経営難の中、「もう1人の父」錦野氏は「芦毛の子」の大成を信じ、人生のすべてを注いだのでした。
そもそも、大きな実績のなかった父シービークロスが種牡馬になれたのも、錦野牧場長・錦野昌章の存在があったからなのです。
シービークロスの走り・末脚に惚れこんだ錦野氏が、種牡馬にするために様々な人・組織に掛け合い、奔走し、強い信念と熱き情熱を注いだからなのです。彼なくして種牡馬シービークロスは誕生していませんでした。そんな思いの中誕生したのが、「タマモクロス」でした。
経営難の中、「もう1人の父」錦野氏は「芦毛の子」の大成を信じ、人生のすべてを注いだのでした。
via www.jbis.or.jp
タマモクロス誕生
1986年(昭和61年)秋、滋賀県栗東の小原伊佐美厩舎に入厩し「タマモクロス」が誕生します。この時のことを小原調教師は「牝馬の如く細い馬」と表現しています。ここでもやはり、「どう見ても走るとは思えない馬」と誰もが思ったようでした。
実際、見た目だけではなく、よく体調を崩し、馬運車が嫌いで、視界に入っただけでおびえて食が細る、というひ弱さがあり、デビューさえも危ぶまれた時期がありました。
実際、見た目だけではなく、よく体調を崩し、馬運車が嫌いで、視界に入っただけでおびえて食が細る、というひ弱さがあり、デビューさえも危ぶまれた時期がありました。
デビュー、そして、母と故郷との別離
明けの4歳となった1987年、タマモクロスはひ弱さゆえに、満足な調教もできず、良化が見込めない状態での参戦となります。
そして、生産者である錦野牧場の命運を背負ってのデビューでした。
そして、生産者である錦野牧場の命運を背負ってのデビューでした。
新馬戦 阪神芝2000m 1987年(昭和62年)3月1日
先頭に立ってレース展開をした「タマモクロス」でしたが、4コーナーで追いつかれ、馬群に沈み、10頭立ての7着。いいところがないまま、芦毛の子のデビュー戦は終わりました。
陣営は第2戦からダートに変更しますが、「タマモクロス」は、4月11日の3歳未勝利戦で勝利しただけで、400万下の条件戦を勝ち上がれず、10月4日の第8戦までの成績は1勝7敗と散々なものでした。
そして、「タマモクロス」の活躍頼みだった錦野牧場は、倒産・解体。
母「グリーンシャトー」は他の牧場へ売られ、7月30日、13歳(人間で47歳前後)という若さでこの世を去りました。のちに、錦野氏は北海道から離れ、一家は離散。
「タマモクロス」の活躍を信じ、すべての情熱を注いだ男の思いは、「グリーンシャトー」の死とともに、言葉に表せるものではなかったでしょう。
この年、「タマモクロス」は母と故郷を失ったのでした。
そして、「タマモクロス」の活躍頼みだった錦野牧場は、倒産・解体。
母「グリーンシャトー」は他の牧場へ売られ、7月30日、13歳(人間で47歳前後)という若さでこの世を去りました。のちに、錦野氏は北海道から離れ、一家は離散。
「タマモクロス」の活躍を信じ、すべての情熱を注いだ男の思いは、「グリーンシャトー」の死とともに、言葉に表せるものではなかったでしょう。
この年、「タマモクロス」は母と故郷を失ったのでした。
突然の快進撃
故郷の悲劇を知ってか知らずか、「タマモクロス」は突然、開眼します。
鞍上・南井騎手の意向もあり、ダートから芝へと転向した10月18日400万下のレース、最後の直線で豪快にして凄まじい末脚を披露し、2着以下を7馬身離して圧勝するのでした。
レース後南井騎手に、「乗っててびっくりした」と言わせるほどの追い込みでした。
まるで、北海道での出来事がわかっているかの如くの走りでした。
そして、このレース以降、引退するまで、枠連対率100%という快挙をやってのけるのです。
鞍上・南井騎手の意向もあり、ダートから芝へと転向した10月18日400万下のレース、最後の直線で豪快にして凄まじい末脚を披露し、2着以下を7馬身離して圧勝するのでした。
レース後南井騎手に、「乗っててびっくりした」と言わせるほどの追い込みでした。
まるで、北海道での出来事がわかっているかの如くの走りでした。
そして、このレース以降、引退するまで、枠連対率100%という快挙をやってのけるのです。
via www.jra.go.jp
フロックか否か
前走で豪快な勝ちっぷりをした「タマモクロス」ですが、陣営は、まぐれか実力かを見極めるために、11月1日藤森特別(400万下)の芝レース出場を決めました。
自身の真価を問われているのを知るよしもない「タマモクロス」は、またも8馬身差のブッチ切リの勝利を収めます。
「本物だ!」誰もが驚きを隠せませんでした。
この後、陣営は、重賞への挑戦を決断します。
自身の真価を問われているのを知るよしもない「タマモクロス」は、またも8馬身差のブッチ切リの勝利を収めます。
「本物だ!」誰もが驚きを隠せませんでした。
この後、陣営は、重賞への挑戦を決断します。
白い稲妻誕生
鳴尾記念 阪神芝2500m 12月6日
陣営はハンディ戦の鳴尾記念出走を決めます。条件(400万下)上がりということで軽ハンディで出走できたからです。しかし、いくらハンディが軽いとはいえ、相手はゴールドシチー、菊花賞馬のメジロデュレン等々、強豪馬が顔を揃えていました。
スタートで出遅れ、シンガリからのレースとなりましたが、その後、徐々に差を詰め、4コーナーを回ったところで先頭集団を抜き去り、アッという間に6馬身の差をつけてゴール!
圧巻のレースでした。そして、3レース連続追い込み一気での大勝利でした。
「白い稲妻の再来だ」ファンたちは口々に称賛したのです。
こうして、父シービークロスの愛称だった「白い稲妻」は、「タマモクロス」へと受け継がれていきました。
圧巻のレースでした。そして、3レース連続追い込み一気での大勝利でした。
「白い稲妻の再来だ」ファンたちは口々に称賛したのです。
こうして、父シービークロスの愛称だった「白い稲妻」は、「タマモクロス」へと受け継がれていきました。
重賞街道まっしぐら
あまりの強い勝ちっぷりに、有馬記念への出走が熱望されましたが、陣営は、食が細く疲労が蓄積している「タマモクロス」を気遣うとともに、将来性を考慮し、有馬記念を回避、春の天皇賞へ照準を合わせます。
しかし、そんな思いとはうらはらに、牧場経営は悪化の一途をたどり、芦毛の子は500万円という安価で、兄姉とともに3頭で京都の三野道夫氏に引き取られます。
錦野氏の心中は、いかばかりだったことでしょう。