もう一度見たい!沢村賞を3回受賞した平成の大エース「斎藤雅樹」
2016年11月25日 更新

もう一度見たい!沢村賞を3回受賞した平成の大エース「斎藤雅樹」

80~90年代のプロ野球で圧倒的なピッチングを見せた平成の大エース「斎藤雅樹」の功績を振り返る。

13,770 view

2年連続20勝、11連続完投勝利を記録し、沢村賞を3回受賞した「平成の大エース」。

斎藤 雅樹(さいとう まさき、1965年2月18日生まれ)
埼玉県川口市出身、身長181cm
現役時代の背番号は、41(1983年 - 1989年)、11 (1990年 - 2001年)

サイドスローの投球フォームで1989年から1990年代中盤まで巨人投手陣を支え、「平成の大エース」と呼ばれた。

斎藤雅1984・88-91 - YouTube

「マッスラ」と呼ばれる高速スライダーと「ブレーキングカーブ」と称されるシンカーを駆使。速球派を自称しており、サイドスローから常時150km/h弱のスピードで投げていた。さらに利き腕方向にねじ切れるように変化するストレートを持っており、そこから更に完投能力が高いのだから手がつけられない。

当時は打高投低の時代にもかかわらず、巨人以外の野球ファンから「斎藤が登板したら負け試合」とまで言われるほどの投球を見せた。

斎藤雅樹のプロフィール

【プロ入り前】
東京都足立区で生まれ、埼玉県川口市で育った。埼玉県の川口市立北中学校、市立川口高校に入学後に頭角を表し、内山清監督の指導のもと夏の高校野球の埼玉大会では決勝戦に進出するも熊谷高校に敗れ甲子園出場は果たせなかった。
【プロ入り後】
1982年のドラフト会議において、ドラフト1位で読売ジャイアンツに指名され、契約金4000万円、年俸260万円(金額は推定)で入団した。打撃、守備センスの良さから、野手転向を勧める声もあったが、当時の藤田元司監督のアドバイス(投球時の腰回転がサイドスロー向きだったという)もあり、サイドスローに転向。
1985年にはローテーションに定着して12勝を挙げ、最終戦まで最優秀防御率のタイトルを争う活躍を見せる。それ以降は不遇な時期もあった。王貞治監督時代は1軍と2軍を往復し、敗戦処理が役割だった時期もある。

斎藤雅樹 入団3年目 (1985) - YouTube

1989年、巨人の監督に復帰した藤田から再び指導を受ける。ノミの心臓で気が弱いという評価などから、王は「斎藤は先発には向かない。」などとしていたが、藤田は斎藤に対し「お前は気が弱いんじゃない、気が優しいんだ」、「(斎藤が「マウンドに上がるのが怖いです」と言った際)投手というのは臆病でないといけないんだ。色々考えたら臆病になる。怖いというのは、お前が色々考えている証拠だ」などと諭し先発で起用し続けた事などにより才能が開花。
3試合連続完封勝利を含む11試合連続完投勝利の日本記録を達成。
8月12日の対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤ球場)では9回1死まで被安打0の快投。あと2人でノーヒットノーラン達成という状況にまで迫ったが、音重鎮にチーム初安打を許したのを機に崩れ、最後は落合博満に逆転サヨナラ3点本塁打を許した。だが、それでも最終的にはシーズン20勝をマークし、西本聖(中日)と最多勝のタイトルを分け合った。

落合博満・斎藤からサヨナラ3ラン - YouTube

天国から地獄へ斎藤を突き落した落合博満サヨナラ3ラン

斎藤雅樹 晩年 (1998、2001) - YouTube

1990年も8試合連続完投勝利を挙げるなど、20勝を挙げ、巨人だけでなく「平成の大エース」「球界のエース」「ミスター完投」と呼ばれるまでに成長した。この年の斎藤を最後に2年連続20勝投手は現れていない。
1993年から1997年まで5年連続で開幕投手を務めた。1993年は故障がちで成績を落としたが、1994年から1996年は3年連続して完封勝利を収める偉業を達成。
桑田真澄、槙原寛己とともに先発「三本柱」と呼ばれ、その中でも抜きん出た成績を残し沢村賞3回、最多勝利5回、最優秀防御率3回など数々のタイトルを獲得した。

斎藤雅樹が打ち立てた日本記録

・3年連続開幕戦完封
・11試合連続完投勝利
・沢村賞受賞回数(3回)
・年間最多勝利回数(5回)
・年間最多完封回数(7回)

主な獲得タイトルと表彰

24 件

思い出を語ろう

     
  • 記事コメント
  • Facebookでコメント
  • コメントはまだありません

    コメントを書く
    ※投稿の受け付けから公開までお時間を頂く場合があります。

あなたにおすすめ

関連する記事こんな記事も人気です♪

ドラフト外入団・雑草【西本聖】の”怪物・江川”との因縁

ドラフト外入団・雑草【西本聖】の”怪物・江川”との因縁

巨人という同じチームでライバル関係にあった西本聖と江川卓。高校時代、無名の投手から沢村賞投手となった西本と怪物だった江川。同じチームにエースは二人並び立たない。果たしてそうだったのだろうか?
tiro | 20,676 view
巨人の三本柱の一角・斎藤雅樹の「野球殿堂入りを祝う会」に王貞治ら球界関係者350人が出席!

巨人の三本柱の一角・斎藤雅樹の「野球殿堂入りを祝う会」に王貞治ら球界関係者350人が出席!

巨人・斎藤雅樹2軍監督の「野球殿堂入りを祝う会」が東京・文京区の東京ドームホテルで開かれた。王貞治ソフトバンク球団会長を始め、金田正一氏、堀内恒夫氏、原辰徳前巨人監督、高橋由伸監督ら球界関係者350人が出席した。
怪物【江川卓】が世の中を騒がせた事件あれこれ!!

怪物【江川卓】が世の中を騒がせた事件あれこれ!!

「空白の1日」「江川問題」は世間を騒動に巻き込み、「江川る(えがわる)」という言葉をも生んだ。並外れた投手・江川は、怪物として甲子園に登場した時から世の中を騒がし続けた。そんな江川が引き起こした事件を選んでみた。
tiro | 16,931 view
【桑田真澄】正確なコントロールと、計算された組み立てで野球人生を歩み続ける男!

【桑田真澄】正確なコントロールと、計算された組み立てで野球人生を歩み続ける男!

174cm、80kgという野球選手としてはけっして恵まれた体格とは言えない桑田真澄。そんな桑田がどのようにしてPL学園の黄金時代を築き、名門巨人軍のエース背番号「18」を21年間に渡り背負ってきたのか。彼の野球人生を振り返り、その時々のエピソードを見てゆくと「桑田真澄」という男の野球哲学が浮き彫りになってくる!
TheLineKing | 48,793 view
【平松政次】ミスターG・長嶋茂雄をメッタ斬りした男

【平松政次】ミスターG・長嶋茂雄をメッタ斬りした男

凄まじい切れ味の「カミソリシュート」を武器に、大洋ホエールズのエースとして通算201勝を挙げた平松政次。その201勝のうち51勝が巨人からの勝利であり、長嶋茂雄が最も苦手としていた投手だった。
tiro | 11,472 view

この記事のキーワード

カテゴリ一覧・年代別に探す

あの頃ナウ あなたの「あの頃」を簡単検索!!「生まれた年」「検索したい年齢」を選択するだけ!
リクエスト