ロッテと中日で活躍した愛甲猛!
右投左打、ポジションは投手から一塁手、背番号は1番から9番。
横浜高校のエースとして1978年、1980年と夏の甲子園へ出場、1980年にはチームを優勝に導いた。
その後、1981年にはドラフト1位でロッテオリオンズに入団。
1983年、打者に転向し1984年~1989年までフルイニング(試合開始から試合終了まで)出場を記録した。
1996年、無償トレードで中日ドラゴンズに移籍。移籍後は代打の切り札として活躍。
2000年、現役を引退。
535試合フル出場!ゴールデングラブ賞も獲得!
打撃では勝負強いバッティングを武器に戦い、1988年から3年連続で2ケタ本塁打を放ったが、21本を放った1990年は低打率だったため、それ以降は安打性のバッターに変わった。
守備では一塁手を中心に外野手もこなす。1989年、ゴールデングラブ賞を獲得。
また、股関節が柔らかく180度開脚して送球を受けることもできた。
甲子園の優勝投手だった愛甲猛!
小学生から野球を始める。体が成長し始めた中学時代は身体能力の高さからバレーボールやバスケット、水泳などにも誘われるほどだった。
横浜高校では1年生から左のエースとなり、1978年の第60回全国高等学校野球選手権大会に出場。途中、1年生の時に副キャプテンの安西という人物と一緒になって1か月にわたって野球部の合宿所を脱走して不良仲間の家を転々としていたが、警察に保護されて当時監督を務めていた渡辺元が身元を引き受ける形で野球部に戻った。3年時の1980年にはエースで3番打者を務め、第62回全国高等学校野球選手権大会決勝戦では、アイドル的な人気を得ていた早稲田実業のエース・荒木大輔に投げ勝ち優勝。
しかし、この決勝では愛甲と荒木は連投の疲れもあってか、打ちこまれてしまった。
地力に勝る横浜高校がリリーフの好投もあり、勝利した。
この後の荒木は、当時甲子園のアイドルだった愛甲をも超える人気を獲得していく事になる。
甲子園で念願の優勝を決め、主将として優勝旗を受け取った愛甲は「優勝旗がこんなに重いなんて…。場内を一周するとき、手が震えました。野球をやめないでよかった」とコメントしている。
「悪童・愛甲」 高校時代の不良伝説!
高校時代は彫りの深い端正な顔立ちと野球の実力を兼ね備えたことから、特に女性の間で絶大な人気と知名度を誇った「甲子園のアイドル」だった一方、悪童としても知られた。 中学時代から不良の道にも精を出し始め、タバコ、女、シンナー、万引き、暴走族など、悪いと言われる事は全てやったという。横浜高校へは授業料免除の特待生で、寮生活の野球漬けのはずが、高校2年まではタバコ、女、シンナーをやっていた。しかし、3年の時に本気で甲子園での優勝を目指してタバコ以外は断った。高校時代のあだ名は「あんぱん」であったという。
想像を絶する横浜高校野球部の「シゴキ」
当時の横浜高校野球部内でのイジメ、シゴキについて、「他の学校は知らないけど、自分の時代は、1年生はゴミ、2年生は人間、3年生は神様だから。周りには3年生から『コーラ買って来い』と言われ、平仮名で『せんえん』って書かれた紙キレを握りしめて買いに行ったヤツもいた。砂利の上に正座させられての説教なんて日常茶飯事。自分が入学する前の出来事だと、コーラの王冠を後輩の頭の上に乗せて、王冠目がけてシューズでパッカーンと殴る先輩も」と語る。 当時の野球部のモットーは『根性とハッタリでは負けるな』。
その中で一年時から頭角を現し、エース扱いをされた愛甲に対して、上級生から向けられる視線は非常に冷たい物だった。その妬みに耐えられなった愛甲は野球から離れてしまう。
ここまででも充分、ぶっ飛んだエピソードを持つ愛甲。しかし、まだまだ悪童・愛甲のエピソードは終わらない!!
高校生ながら「ソープ」に接待されていた!
甲子園での優勝後は、「優勝パレードの翌日にスナックで酒を飲んでたら、知り合いの社長が来て、一緒に堀之内のソープに行った。あの時は待合室にお姉さんたちが集まって、サイン会になった」とういう。
甲子園で優勝した後は周りの扱いが変わって、授業中に別室に呼び出されて色紙にサインを書かされた。お茶やお菓子を出されて、なんならタバコも吸うかと言われた。
プロ野球球団からもソープを接待された!
ドラフト前にはプリンスホテルや西武の関係者と接触を持っていた。 小遣いとして毎回10万円をもらい、ソープなどの接待も受けたという。 社会人チームであるプリンスホテルからは異例の4000万という支度金を提示されたが大洋を希望していて、大洋でなければプリンスホテルと考えていた。 ロッテに1位指名されたが大洋を希望した事もあり嫌な表情を浮かべ、ロッテ関係者が挨拶に来た日には女との先約があったのですっぽかしたそうである。