野球から離れた愛甲を救った渡辺監督!
1年生の左腕エースとしてマスコミに騒がれ、自分を見失い、更に上級生の妬みを買ってしまい、合宿所から出て行ったのだ。
その愛甲を救ったのが横浜高の渡辺監督だった。
ボールの感触を忘れかね、野球部に戻って来た愛甲を自宅に引き取り、自分の家族と一緒に暮らすことで痛手を受けていた愛甲の心は徐々に蘇っていった。
渡辺監督は、「愛甲と心中する。あいつが中心にならなければ強くならない」とキャプテンに抜擢、大博打に打って出たのだが、この賭けは見事成功することになるのだった。
愛甲は5歳の時に両親が離婚し、母子家庭で育った。
早く母親を楽させたいと考えていた愛甲を見事復活させたのが渡辺監督だった。
ちなみに、愛甲は渡辺監督宅の電話を毎晩遅くまで利用し、月の電話代が何倍にも膨れ上がったが、「それで愛甲が立ち直ってくれるなら」と黙認してもらっていたそう。
プロ入り後は未勝利!落合の一言で吹っ切れた!
しかし、期待された左腕はプロでは一勝も出来ずに、4年目の1984年に打者へと転向した。
投手としての3年間の成績は、一軍登板が61試合。主に使われ方はリリーフで、1983年にはリリーフとして48試合に登板。通算0勝2敗、防御率6.70だった。
3年目のオフに自ら打者(野手)への転向を球団に申し出た。
愛甲本人は1年目のキャンプ時点で「プロに入った以上はゼニの稼げる男になる。それが投手であっても打者であってもどちらでも構わない」とコメントしていた。
落合に一喝され、甲子園優勝投手のプライドを捨てた!
落合から受けたトレーニングはまさにスパルタ教育だった。余りの厳しさについ「これでも甲子園優勝投手ですよ」とこぼすと、落合は「そんなに甲子園がいいなら甲子園に帰ればいい」と一喝。
愛甲はこの一言で吹っ切れ、プライドを捨てる事ができたという。
落合は厳しい指導の反面、愛甲を可愛がり、行動を共にすることが多く、打者転向に一番大きな役割を果たしてくれたと愛甲は自著『球界の野良犬』で語っている。
打者として成功した愛甲猛!フルイニング出場記録も!
1992年7月11日まで『全535試合連続フルイニング出場』という驚異的な記録を持つ愛甲猛であった。
中日ドラゴンズ移籍後は「代打の切り札」に!
1999年には代打起用でありながら「打率.387」と勝負強さを見せ、リーグ優勝に貢献した。
2000年に引退後はタレントや評論家に!
1998年の『燃えよドラゴンズ!'98』に『忘れるものか愛甲を』で登場している。
2000年に現役を引退。引退後はVシネマの俳優などタレント業を行っていたが、現在は実業家、野球評論家として活動中。
2002年、「温泉旅行に行っただけ」と本人は語ったが、失踪騒動が起こる。タレントとして契約していた芸能事務所とトラブルが起こっていたらしい。これ以降、『愛甲=行方不明』というネタが定着してしまった。
燃えよドラゴンズ1998 - YouTube
愛甲猛の打席シーン
愛甲 猛 ロッテ・オリオンズ【HD】 - YouTube
1998.6.18 巨人vs中日14回戦 4/24 - YouTube
1:56~ 愛甲の打席