【異端の最強牝馬】ヒシアマゾン
2016年11月25日 更新

【異端の最強牝馬】ヒシアマゾン

強烈なパフォーマンスと人々の記憶に残るレースの数々だったヒシアマゾン。調教技術の向上により現在では、牡馬を相手に活躍する牝馬は多くなってきたが、その先駆けともいえるヒシアマゾンを追っていきます。

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期待されていなかった育成時代

ヒシアマゾンはケンタッキー州のテーラーメードファームで生まれた。 
母ケイティーズ 父シアトリカル。母は「ヒシ」の冠名で有名な故・阿部雅一郎さんがアメリカで購入し、テイラーメードファームに残してきた馬である。
ちなみに当初は、ヒシアマゾネスという馬名で登録しようとしたが却下された為、ヒシアマゾンになったといわれている。

兄のヒシアリダーは雄大な馬体を持ち、周囲の評判は高かった。しかもヒシアマゾンの配合は阿部氏がニアークティックの4×3のインブリードに拘ってシアトリカルをつけた。配合のプロではない阿部氏の決断に反対の声は多かったという。また、生まれたばかりのヒシアマゾンは小さくひょろっとしていた。
日本に来て千葉の大東牧場に預けられ、育成を進められた。その間に阿部氏でさえ一度も顔を出す事がなかったという。それほど周囲からは期待されていなかった。

ヒシアマゾンの生みの親 阿部雅一郎

阿部雅一郎 - Google 検索 (1558042)

父・雅信は国営競馬時代の1947年から馬主となっており、屋号の「菱雅」から「ヒシ」の冠名を用いてヒシマサル、ヒシマサヒデ、ヒシスピードといった重賞勝利馬を所有。雅一郎も中学生の頃から父に連れられて競馬場を訪れていた。1981年に雅信が死去し、総数200頭ほどの競走馬・繁殖馬を引き継いたが、当時競馬関連の費用が本業を圧迫するほどになっており、他方ではヒシマサル、ヒシマサヒデの血統に偏った馬たちが調教師に敬遠されていたことから、7年をかけて雅信がらみの馬を整理した。心機一転して新たな馬の購買に乗り出したが、生産者となじみの馬主や調教師が、馬が市場に出る前に直接取引を行う「庭先取引」の閉鎖性に阻まれ、競り市での取引が活発なアメリカに活路を求める。
1989年に初めてケンタッキー州での競り市に参加し、同年11月のセールでは競走馬時代にアイリッシュ1000ギニーを制していたケイティーズを100万ドルで落札した[9]。1991年にはセクレタリアト産駒の牡馬を32万5000ドルで購買。同馬は旧所有馬を一掃してしまった雅信への罪滅ぼしのため、二代目の「ヒシマサル」となった。ヒシマサルは1992年に雅一郎に初の重賞勝利をもたらした。1993年には、アメリカのテイラーメイドファームに預託していたケイティーズの子・ヒシアマゾンが阪神3歳牝馬ステークスに優勝し、GI競走初制覇も果たした。1995年にはヒシアケボノがスプリンターズステークスを制し、日本のGI競走における最重量馬体重での勝利記録を樹立。以後もヒシアマゾンの2頭の妹などアメリカからの輸入馬が数々の重賞を制したほか、2002年から2003年にかけては日本生産馬のヒシミラクルが3つのGI競走を制した。

入厩そしてデビューへ

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関東の中野隆厩舎に入厩したヒシアマゾンだったが、当時の助手は「脚元が危なくて競走馬としてデビュー出来るか不安だった」と語っている。しかし、馬体は悪くなく脚元の具合を見ながらの調教となった。調教を積んでいくうちにグングン動きが良くなり、周囲の評価も変わってきたがG1を取るほどとは思われていなかった。そして、デビュー戦を迎える。未だ脚元の不安が解消されていない為、ダート1200m戦でのデビューtとなった。デビュー戦は1番人気に推され、ゴール前で何とか交わしデビュー勝ちを収めた。しかし、中野調教師は「ダート向きではないと思っていたが、もう少し楽に勝てると思った」と落胆していたという。2戦目もダート戦を選び2着、3戦目で初芝を使い2着とした。初芝・初重賞挑戦した3戦目はヤマニンアビリティの強襲にあっていしまったが、調教師・騎手ともに「芝のほうが断然イイ!」という評価だった。

3歳牝馬NO.1へ

中野調教師は迷うことなく、3歳牝馬NO.1決定戦の「阪神3歳牝馬S」の出走を決める。この頃には脚元の不安は解消されており、万全の態勢で出走できた。ヒシアマゾンは2番人気に推された。しかし、レースでは4コーナーで先頭に立つと一気に加速をしそのまま後続に5馬身の差をつけての圧勝だった。タイムもその当時の3歳レコードと申し分ないレースで3歳牝馬の頂点にたった。
鞍上の中舘騎手も「今日はただ乗っかっていただけ」とレース後に語っている。

快進撃の始まり

ヒシアマゾン - Bing images (1558250)

当時のルール上外国産馬は出れるレースが限られており、ヒシアマゾンは距離適性等は関係なくレースに出走する事になる。そしてまたそれは快進撃の始まりでもあった・・。
年明けの京成杯では中舘騎手への洗礼が待っていた。わずか8頭立てではあったが外から完全にフタをされ完全に進路を失う。前が空いて猛然と追い込むが時すでに遅しだった。この経験で鞍上の中舘騎手は腹をくくり、ヒシアマゾンの「少しの不利があっても外を回し力でねじ伏せる」というレーススタイルが確立され、後の快進撃へと続いていく。

異次元な末脚をみせたクリスタルC

第8回クリスタルC 1着 ヒシアマゾン 2着 タイキウルフ 3着 フィールドボンバー
異次元とも呼べる末脚だった。本質的には1200m戦では追走が苦しいと言われていた通り、道中は追いどうしで直線に向いても7~8番手、先頭を行くタイキウルフとの差は絶望的な距離だった。しかし、残り100mを切ったところから一気に差し切りを決めてしまった。タイキウルフが止まっていいるように見えたが、レースのラスト1ハロンは11秒8。正に異次元の末脚を見せつけたレースだった。

重賞6連勝の偉業へ

クリスタルCの後ニュージーランドトロフィーも快勝したヒシアマゾンは秋の大目標「エリザベス女王杯」へと向かう。秋初戦のクイーンS不安材料は2000mの距離だけだった。道中は最後方にいたが3コーナーで先行集団に取りつき危なげない勝利を飾り、距離不安説を一蹴した。

【死闘】オークス馬チョウカイキャロルとの対決

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