飛龍革命事件
via www.youtube.com
1988年の4月22日、
沖縄の奥武山体育館で猪木・藤波組vsベイダー・マサ斎藤組のタッグマッチが行われ、9分24秒、ベイダー・マサ斎藤組の反則勝ちとなった。
この試合は同じカードでもう1試合が決まっていた。
(2連戦が決まっていた。)
試合後の控室で藤波辰巳がこの日程に異議を唱えた。
「…今日は俺の方がすまん。」
(猪木)
「ベイダーと#$@&$%*&%…」
(藤波)
「…え?」
(猪木)
「ベイダーとシングルでやらして下さい。
今日は僕、何もやってないです。
…もういい加減許して下さい。
もう時間もないです。
#&%@*+$。&%*+@#$
お願いします。」
(藤波)
「・・・・・・」
(猪木)
「はっきりいって下さい、猪木さん。
東京と大阪と2連戦無理ですよ、はっきりいって。
俺、自分が今日こんな形でね、いえる立場じゃないけど。」
(藤波)
「・・・・・」
(猪木)
「俺らは何なんですか!? 俺らは!!」
(藤波)
「命賭けれるかい? 命を。
勝負だぜ、お前。」
(猪木)
「もう何年続くんだ。
何年これが・・・」
(藤波)
「だったら破れよ。
なんで俺にやらすんだ、お前。」
(猪木)
「だったらやりますよ、俺が。」
(藤波)
「俺は前にいった、遠慮することはないって。
リング上は闘いなんだからよ。
先輩も後輩もない。
遠慮されたら困る。
なんで遠慮するんだ。」
(猪木)
「遠慮してんじゃないです!!
これが流れじゃないですか、新日本プロレスの、ね
そうじゃないすか!?」
(藤波)
「じゃ力でやれや、力で、あ?」
(猪木)
「やります!」
(藤波)
「やれんのか!? お前本当に!!」
(猪木)
直後、猪木が藤波に張り手。
藤波も張り手を返す。
「あぁ?」
(猪木)
「えぇ!」
(藤波)
「行けんかい?」
(猪木)
「やりますよ…やりますよ…」
(藤波)
そして藤波はハサミを出して自分の前髪を切る。
「待て…待て…」
(猪木)
「こんなんなったら私やめますよ、この野郎。
お客さんちっとも喜ばないですよ。
俺、負けても平気ですよ!!
負けても本望ですよ、これでやるんだったら!!」
(藤波)
「やれや、そんなら!!」
(猪木)
「やります。」
(藤波)
「ああOK
俺は何もいわんぞ、もう
やれ、その代わり。」
(猪木)
「大阪で俺の進退賭けます。
賭けていいすか?」
(藤波)
「何だっていいや。
何だっていって来いや!!
遠慮する事ぁねえよ。」
(猪木)
「もういいです…」
(藤波)
「・・・・」
(猪木)
こうして藤波の革命を決起された。
その目標は「世代交代」、すなわち「猪木越え」だった。
数週間後、藤波は、ビッグバン・ベイダーに勝って、IWGPヘビー級王座を獲得。
その数か月、猪木は挑戦者として藤波に挑み、60分フルタイムの名勝負の末引き分けた。
藤波は新日本プロレスのエースとなり、1999年には新日本プロレスの社長に就任した。
沖縄の奥武山体育館で猪木・藤波組vsベイダー・マサ斎藤組のタッグマッチが行われ、9分24秒、ベイダー・マサ斎藤組の反則勝ちとなった。
この試合は同じカードでもう1試合が決まっていた。
(2連戦が決まっていた。)
試合後の控室で藤波辰巳がこの日程に異議を唱えた。
「…今日は俺の方がすまん。」
(猪木)
「ベイダーと#$@&$%*&%…」
(藤波)
「…え?」
(猪木)
「ベイダーとシングルでやらして下さい。
今日は僕、何もやってないです。
…もういい加減許して下さい。
もう時間もないです。
#&%@*+$。&%*+@#$
お願いします。」
(藤波)
「・・・・・・」
(猪木)
「はっきりいって下さい、猪木さん。
東京と大阪と2連戦無理ですよ、はっきりいって。
俺、自分が今日こんな形でね、いえる立場じゃないけど。」
(藤波)
「・・・・・」
(猪木)
「俺らは何なんですか!? 俺らは!!」
(藤波)
「命賭けれるかい? 命を。
勝負だぜ、お前。」
(猪木)
「もう何年続くんだ。
何年これが・・・」
(藤波)
「だったら破れよ。
なんで俺にやらすんだ、お前。」
(猪木)
「だったらやりますよ、俺が。」
(藤波)
「俺は前にいった、遠慮することはないって。
リング上は闘いなんだからよ。
先輩も後輩もない。
遠慮されたら困る。
なんで遠慮するんだ。」
(猪木)
「遠慮してんじゃないです!!
これが流れじゃないですか、新日本プロレスの、ね
そうじゃないすか!?」
(藤波)
「じゃ力でやれや、力で、あ?」
(猪木)
「やります!」
(藤波)
「やれんのか!? お前本当に!!」
(猪木)
直後、猪木が藤波に張り手。
藤波も張り手を返す。
「あぁ?」
(猪木)
「えぇ!」
(藤波)
「行けんかい?」
(猪木)
「やりますよ…やりますよ…」
(藤波)
そして藤波はハサミを出して自分の前髪を切る。
「待て…待て…」
(猪木)
「こんなんなったら私やめますよ、この野郎。
お客さんちっとも喜ばないですよ。
俺、負けても平気ですよ!!
負けても本望ですよ、これでやるんだったら!!」
(藤波)
「やれや、そんなら!!」
(猪木)
「やります。」
(藤波)
「ああOK
俺は何もいわんぞ、もう
やれ、その代わり。」
(猪木)
「大阪で俺の進退賭けます。
賭けていいすか?」
(藤波)
「何だっていいや。
何だっていって来いや!!
遠慮する事ぁねえよ。」
(猪木)
「もういいです…」
(藤波)
「・・・・」
(猪木)
こうして藤波の革命を決起された。
その目標は「世代交代」、すなわち「猪木越え」だった。
数週間後、藤波は、ビッグバン・ベイダーに勝って、IWGPヘビー級王座を獲得。
その数か月、猪木は挑戦者として藤波に挑み、60分フルタイムの名勝負の末引き分けた。
藤波は新日本プロレスのエースとなり、1999年には新日本プロレスの社長に就任した。
政治へ
via www.youtube.com
1969年から20年近くゴールデンタイムを死守してきた「ワールドプロレスリング」が、1988年3月でゴールデンタイムから撤退し、4月から土曜の午後4時の放送に移行した。
放送権料の減少からレスラーのファイトマネーダウンは明白だった。
しかもエースの猪木の衰えは顕著だった。
1989年2月22日、アントニオ猪木は、長州力のリキラリアートの連発に、完璧なピンフォール負けを喫した。
猪木はセコンドに肩を担がれ涙を流しながらリングを後にした。
放送権料の減少からレスラーのファイトマネーダウンは明白だった。
しかもエースの猪木の衰えは顕著だった。
1989年2月22日、アントニオ猪木は、長州力のリキラリアートの連発に、完璧なピンフォール負けを喫した。
猪木はセコンドに肩を担がれ涙を流しながらリングを後にした。
猪木は「スポーツを通じて国際平和」を合言葉に、「スポーツ平和党」を結党した。
党首は猪木、幹事長は新間寿だった。
党首は猪木、幹事長は新間寿だった。
via www.youtube.com
そして第15回参議院議員通常選挙に比例区から出馬。
キャッチコピーは
「国会に卍固め、消費税に延髄斬り」
1989年7月24日、猪木は参院選に当選し、史上初の国会議員レスラーとなった。
(なんと最後の1議席に滑り込み当選)
1989年8月1日、国会議事堂に初登院し議員バッチの交付を受けた。
「今話題になっているリクルート問題に対して、私はこの一言で片付けたい『逆十字固め』。」
「国会の場でも俺にしかできないことをやる。」
キャッチコピーは
「国会に卍固め、消費税に延髄斬り」
1989年7月24日、猪木は参院選に当選し、史上初の国会議員レスラーとなった。
(なんと最後の1議席に滑り込み当選)
1989年8月1日、国会議事堂に初登院し議員バッチの交付を受けた。
「今話題になっているリクルート問題に対して、私はこの一言で片付けたい『逆十字固め』。」
「国会の場でも俺にしかできないことをやる。」