バス・ルッテン  Jumping Splits
2016年11月25日 更新

バス・ルッテン Jumping Splits

パンクラスでは打撃による「秒殺」を量産。また「打・投・極」の総合格闘技3要素の中でほぼ投げを省き「打・極」という新しいスタイルを確立させた。常に笑顔で明るくノリノリな一面と妙に礼儀正しい一面、そして戦いの中でみせるコワい一面。いろいろ興味深い人だけれど、心が大きくて強いのは間違いないと思う。

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これまでの彼は「普通の少年」ですらなかった。
喘息と皮膚病のため何日も部屋に閉じこもっていなければならなかった。
孤独で寂しく、肉体的にも社会的にもハンディを負った小さな少年だった。
しかしさまざまな出来事が重なり、彼はずっと憧れていた「普通の」青年になった。
「まず私の喘息が大人になるとある程度治るという一時的なものだったのです
第2に薬が喘息と皮膚病を治してくれました
そして第3にメガネをかけるかわりにコンタクトにすることができたのです
16歳になってから私は別人のようになりました
呼吸の問題はだんだんよくなりましたし
皮膚病は消えていきました
メガネをとると私は違う人間になれました
生まれて初めて女の子たちは私に注意を向けるようになり
もういじめられることもなくなりました
私の人生の中でも混乱した時期です
それまで私に起こっていたことが信じられませんでした
病気が再発するのではないかとたびたび不安になりましたが
病気は治り私は普通の生活をするようになったのです」
via レジェンド オランダ格闘家列伝
 (1740417)

病気の許す限り練習し、競技会にも参加した。
痩せた体に筋肉がつくまで時間はかからなかった。
17歳のとき
高跳び、204cm
幅跳び、724cm
100m走、11.2秒
槍投げ、56m
薬を服用しなくてもよくなったため、学習能力は高まり、進学を勧められた。
しかしそれはもう遅すぎた。
「私はエネルギーがありあまりすぎて学校に座って勉強できませんでした
私は学校を卒業して仕事に就きたかったのです
ウエイターとしてレストランで働きました
それから調理師の助手となり
調理免許のためのコースをとり
2年後に卒業して一流レストランで働きました」
via レジェンド オランダ格闘家列伝

ナチュラルマーシャルアーティスト

 (1740361)

めざましい回復の後、バス・ルッテンはディスコやバーに出かけた。
たくさんガールフレンドができ、踊ったり、楽しく過ごした。
そして彼は自分がケンカに強いことに気づいた。
過去の彼は、たくさんのいじめや侮辱にあってが、まともに相手をしなかった。
しかし今や、自分からケンカを売ることはないが、誰かに挑まれれば闘った。
 (1740362)

バス・ルッテンは極真空手とテコンドーを習った。
彼は天性のマーシャルアーティストだった。
20歳で両方のマーシャルアーツで初段となり、23歳のとき、初めて78kg級のキックボクシングの試合に出た。
その後2年間で16試合をして、うち14回KO勝ちした。
2敗はいずれも強敵で、そのうち1人はフランク・ロブマンだった。
「両試合とも私は病気で準備ができず出場すべきではありませんでした
しかし私はいつも約束は神聖なものだと考えています
プロモーターと出場する約束をしてしまうと
体調がどうであれやらなければならないという気持ちになるのです
どちらのときも私は持久力が十分でなかったので打ちのめされました
私は信じられないほど疲れていましたが
なんとか立って試合を終えることができました」
via レジェンド オランダ格闘家列伝

用心棒

 (1739841)

バス・ルッテンはレストランが終わると、コックからディスコやナイトクラブの用心棒になって働いた。
用心棒の仕事の1日の給料は、コックの仕事の1週間分より高かった。
しかも休みがとりやすく、格闘技やトレーニングを続けることができた。
「私はディスコやナイトクラブに行き始め、お酒を飲み、カジノでギャンブルをしました
できるかぎり動き回りたかったのです
まったく休みませんでした
1カ所にじっとしていることができませんでした
振り返ってみると、今はわかるのですが、私は人生に対して信じがたいほど飢え乾いていたのです
少なくとも、私の感じたことですが、病気のために楽しく時を過ごしたことがなく
たぶん長い間生きているという実感をまったくあじあわなかったためだと思います
その頃楽しいときというのは、いわゆる友達と一緒に飲んでギャンブルをして、ときどき路上でケンカすることだと思っていました
私はケンカに強くなってから友達がいなかったことはありません
当時はすでによく知られたキックボクサーになっていました」
via レジェンド オランダ格闘家列伝

根っからのエンターテイナー

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