ブルース・リーと映画
ジークンドーを教えるかたわら、ハリウッドで俳優業も続けていましたが、当時のハリウッドには、アジア人に対する見えない壁があり、アジア人は絶対に主役になることができませんでした。25~30歳までのブルース・リーは、俳優業においては「本当に表現したいもの」をすることができなかったのです。
「クンフー映画のおひざ元で、ハリウッドをあっと驚かす作品を作る!」という野心に燃えて、『ドラゴン』映画制作に取り組んだのでした。
『ブルース・リー』の伝説:『燃えよドラゴン』(日本では1973年公開)から始まる「ドラゴンシリーズ」と後世への影響 - Middle Edge(ミドルエッジ)
脚技の速さから、「脚三李」(足が3本に見える)と、新聞に評されたほどでした。
2作目『ドラゴン怒りの鉄拳』、3作目『ドラゴンへの道』も大当たり。
特に3作目の『ドラゴンへの道』は、製作・監督・脚本・主演・武術指導の5役をこなしました。クライマックスの、アメリカ空手チャンピオンとの7分間の死闘は、世界の映画史上最高の格闘シーンと言われています。
わずか2年足らずの間にトップスターに駆け上がっていきました。
けれどブルース・リー自身は、まわりの興奮を冷静に見つめていました。
次の動画は、その頃の心境を語ったものです。
『だから米国では、本物の東洋を見せてやると決めたんだ』
『ドラゴンへの道』の後、ハリウッドから映画の共同制作話が持ち込まれ、すでにスタートしていた『死亡遊戯』の制作を中断し、『燃えよドラゴン』の撮影に入るのです。
『本物の東洋』
この言葉通り、武道家としても俳優としても、人生の総決算となる作品になりました。
この時期のブルース・リーの武術が、いかに常人離れしたものであったか、是非この動画をご覧ください。
けれど「20世紀で最も重要な・偉大な100人」に選ばれるほど、彼の遺した映画とジークンドーが人々に与えた影響は大きかったのです。
偉大なる武道家に敬意を表したいと思います。