大手出版社の営業マン。勤務先のコマーシャルのキャッチフレーズ「ヤリガイ満々」から「ヤリガイ」「バカガイ」と呼ばれていた。グァム・ハワイと2度連続で敗者復活。特に2択3択の選択問題に強かった。
一方で体力系のクイズではアルバカーキでは思考力が鈍って解答までに時間がかかったりほてった体を冷やすために頭から水をかぶる、ニューヨークのマラソンクイズでは敗者とのラスト抜け争いとなり誤答・キャンセルの連続でなかなか決着をつけられず、敗者が誤答ペナルティで解答席を離れた間に通過を決めるなど苦戦し、またドーバーでは3番目に通過した時点で、続くドーバー横断○×クイズにおいて自らの予測した解答と違う側の飛行機の座席しか残っておらず嫌々乗り込んだもののそちらが正解であったりと運で勝ち上がった面もあった。
優勝賞品 1人乗り小型潜水艦
第10回(1986年)
10周年記念大会となった今大会は、途中アトランタから1本のルートが北米コースと南米コースに分岐され、それぞれのチャンピオンがニューヨークで合流するという初の試みが取り入れられた。総移動距離5万キロは第12回に次いで2番目、総チェックポイント数18は歴代大会で最も多い(1人が通過するチェックポイントは15で歴代3位)。
福留が担当する北米ルートは通称「天国組ルート」と呼ばれ、遊園地や豪華客船上などでクイズが行われた。チェックポイントはアメリカ合衆国のみだが、クイズの無い日にはバハマも訪れている。一方、同行アナウンサーの日高直人が担当する南米ルートは通称「地獄組ルート」と呼ばれ、ボリビアとブラジルに上陸し、ボリビアでは標高4000mで酸素が薄いという過酷な環境下でクイズが行われた。
全大会で唯一、第二次予選が「腕ズモウ」で行われ、機内ペーパークイズが2機の機内で同時に行われた。ロサンゼルス、アトランタではギャラリーの雑音・騒音に恐怖して敗者になる挑戦者が出、エルパソでは焦りから作戦をミスした挑戦者が敗退するなど、精神的なタフさが勝負を分けた戦いが多かった。中盤戦のモニュメントバレー、エルパソ、ダラスは3連続で体力クイズが続き、体力面のタフさも求められた。今大会と翌年の第11回ではリバティ島・自由の女神像の前で決勝戦が行われた。
前年とは一変して機内ペーパークイズの上位5名が全員本土上陸を果たした。決勝戦では実力者同士の激戦が繰り広げられ、第5回・第13回の準決勝と並ぶ名勝負とされている。
クイズ王(優勝者) 森田敬和
森田敬和
拓殖大学出身、企画会社社長。20歳でスーパーダイスQのチャンピオンとなって以来、ウルトラクイズ優勝前に計8つのクイズ番組を制覇していた実力者。
成田の○×問題で一度失格したものの、機内ペーパークイズで敗者復活。早押しクイズでは常に上位で通過し、アトランタではトップで通過、そのアトランタでルートの南北分けを選択する際、同地が南北戦争における南軍側であったことから「南行かなきゃどこ行くのよ?」と南米行きを選択したものの、ボリビアでは39度近い高熱と腹痛、高山病に苦しみ、南米ルートの他の挑戦者がサポート。
これによって挑戦者間の連帯感が強まり、準決勝では挑戦者間で「お互い全力を尽くして、勝者を南米ルート代表として快く送り出そう」「南の方から優勝者を出そう」という約束が交わされた。
なお北米ルートとの合流前、南米ルートスタッフ全員から手厚い激励を受けたという。優勝した際に、南米に同行した同い年の日高アナウンサーと抱擁し喜び合い、森田が飲み残した勝利のシャンパンを日高が森田の頭からかけ手荒い祝福をする姿も放送。
準優勝者 西沢泰生
東海大学出身、社内報編集者。森田と同様に、数多くのクイズ番組を制覇した実力者。福留からは、その見た目から「とっちゃん坊や」と呼ばれた。機内の成績は、森田とはわずか1点差であった。
アトランタでは森田に次いで2位で通過、「ナイアガラの滝に行きたいので」と北米を選択したが、その際福留から「ひょっとすると森田を避けたか?」とコメントされた。
北米ルートではオーランド、マイアミと2位通過、ナイアガラの準決勝では一旦不正解で-2ポイントまで落としながらも盛り返し、通過クイズ1回目(他挑戦者の不正解のため出題は2問)で決勝進出を決め、決勝での対戦相手について「90%森田敬和君」と予想し、予想通り森田との対戦となった決勝では一旦+2対+9と大量リードで王手をかけられた後から一気に盛り返し、相手の不正解もあり逆転、逆に+9対+8と王手をかける(その後森田の不正解で一旦+9対+7に開く)も、勝負をかけた問題で不正解し+8に後退、最後は2ポイント差で敗れた(優勝に王手をかけた準優勝者は西沢が唯一)。
帰国後、スタジオで「永遠に縮まらない2ポイント」と語っている。優勝賞品贈呈に際して「もう本当に二度とクイズに出るなョ」とマジックで書いた水色のTシャツを森田に送った。
優勝賞品 熱気球
熱気球
本人は「これで東京に帰りたい」と飛び立ったが、ゴンドラからは「南米直行」の垂れ幕がぶら下がるというオチがついた。
第11回(1987年)
後楽園球場で第一次予選が行われた最後の大会。福留が引退を宣言するが、敗者の味方・徳光和夫と総合司会の高島忠夫の説得により宣言は保留され、結果的には翌年も登場しているため事実上の撤回となった。
大会には高島も挑戦者として出場した。大会審査委員長が、テレビマンユニオンの白井博から日本テレビプロデューサーの高橋靖二に交代した。
成田へ行く前に埼玉県岩槻市(現・さいたま市岩槻区)の久伊豆神社(正式な読み方は「ひさいず神社」だが番組中では「クイズ神社」と呼ばれていた)で第二次予選を、また敗者復活戦を名古屋近郊(愛知県小牧市)でそれぞれ行い、今大会も成田からの飛行機を勝者機と敗者機との2機を用意し、勝者機はそのままグァムに直行して機内で400問ペーパークイズを実施したが、敗者機の方では単なる敗者復活と銘打たず、名古屋縦断ミニトラクイズと称するなど、日本国内からグァムに至るまでの行程において一工夫が施された。敗者復活戦には第二次予選での敗者も参加した。
また、成田での第三次予選に際しては挑戦者柳井秀人(No.87、マイアミで敗退)が予選方式(ジャンケンか腕ズモウか)の決定の鍵を握る存在として登場し、日高直人と腕ズモウを行うが、敗北したという趣向もあった。
なお、この大会では過去の大会で歴代クイズ王となった一部の挑戦者が出場したが、その歴代クイズ王の挑戦者全員が第1問で敗退すると言う大波乱の幕開けとなった。また、成田→グァム間を移動する航空会社がこれまでのコンチネンタル・ミクロネシア航空から全日本空輸へと変更された。
大陸上陸後では、途中のチェックポイントを免除できるルールが採用された。ルート中盤では第5回以来6年ぶりにメキシコに上陸し、ユカタン半島を経由。タイムショッククイズ(タイムレース)が初登場。ベスト8にグァム泥んこ復活組が4人、ハワイ敗者復活、後楽園敗者復活、名古屋敗者復活組が1人ずつランクインするなど敗者復活者が健闘し、上位5名は全員敗者復活者であった。準決勝では第1回クイズ王・松尾清三との対決クイズが行われた結果、全大会で唯一3名が決勝戦に進出した。
クイズ王(優勝者) 稲川良夫
稲川良夫
立命館大学出身、凸版印刷勤務。立命館大学クイズ研究会(正式名称「立命館大学クイズソサエティ」・通称RUQS)の設立者にして初代会長であり、第5回で初参加し、第7回からはRUQSを引き連れて後楽園予選に出場していた。
出場前に申請していた有給休暇は6日、それを遥かに超え会社を解雇されるかも知れないという状況の中で当大会に臨んだ成田で敗退したが、「名古屋縦断ミニトラクイズ」では真っ先に正解し敗者復活パチンコに挑戦を開始、復活条件の2000発を大きく上回る3499発を叩き出し、敗者機内での400問ペーパークイズで勝者機を含めた総合1位を獲得、グァム深夜トレードクイズで2抜けと四連勝し敗者復活・合流を果たした。
一般企業の社員で決勝進出を果たした挑戦者は数名いるが、優勝を果たしたのは稲川だけである。稲川は帰国後、解雇されているものと思いながら出社したところ、上司の配慮により解雇されてはおらず、日本テレビも、優勝後のスタジオ収録の際に石川が「(勤務先の)名を世に知らしめたことを広告費用に換算すると数億円に上る」と述べたり、福留も「大変な営業マンだと思いますよ」と稲川を擁護した(ただし稲川は翌1988年には凸版印刷を退職している)。
準優勝者 山賀恵美子
山賀恵美子
青山学院女子短期大学の学生。グァムで敗者復活。この年の上位進出を果たした彼女と他の女性2名と合わせて「三人娘」と呼ばれ、放送当時は番組視聴者の間で非常に人気があった。
リンカーンでは温井和佳奈(東京都出身、No.52、19歳・リンカーンで敗退)との三人娘対決の末にラスト抜けを果たした。歴代最後の女性決勝進出者。
決勝では一問だけ解答することができ、解答した際にはグリニッジ・ビレッジ・ハイスクール・バンドの学生たちから歓声があがった。
優勝賞品 カナダ東部のノバスコシア沖に浮かぶ島
カナダ東部のノバスコシア沖に浮かぶ島
稲川が名古屋のパチンコで敗者復活したことから「パチンコ島」と命名して、敗者復活のタスキをこの地に埋めて記念とした。放送最後は雨の中岩礁に取り残されるというほとんど罰ゲームのような終わり方をした。稲川のブログによれば、実際には最初に上陸した島も含めて賞品として貰えたという。現在も稲川はこの島を所有している。
「ウェット型」という形式で潜水艦内部に水が入ってくるため乗員はアクアラング等の潜水具が必要になる。
エンディングではほとんど罰ゲームのような優勝賞品と言われた。翌年の第10回の優勝旗返還にも登場した。