しかし左の先発の柱として期待された1995年は4勝に終わり、1996年も4月から不振で5月に先発ローテーションから外され、6月上旬まで二軍で調整を行なっていた[51]。この間に引退も考えたが、二軍投手コーチの宮田征典に誘われてリリーフに転向した[47]。先発は8月10日の対中日戦が最後となった[52]ものの、7月から8月にかけて負け試合の救援登板で安定した投球を見せ、リードしている場面での起用が増えていった[53]。リリーフでは防御率1点台前半の好成績を残し、9月24日にはプロ16年目にして初のセーブを記録している[53]。メークドラマに向かって調子を上げたチームにあって同じ左投げの河野博文とともにリリーフの軸となった[52]。10月6日の対中日戦では9回裏2死で立浪和義から奪三振を記録し、自身初の胴上げ投手となった[53]。日本シリーズでは第1戦、第2戦、第5戦の3試合に登板し、計4回2/3を無失点で終えている[54]。
1997年からは古傷である腰や左足の痛み肩の違和感などから二軍での調整が増え、趙成珉や小野仁ら若手選手に投球や心構えについての助言を送っていた[45]。1998年シーズン限りで現役引退。引退試合となった10月3日の対戦相手は古巣の広島で、挨拶の際にセレモニーに参加した広島の選手に対して礼を述べた。2014年時点、FAで巨人に移籍し、巨人で引退した選手は川口だけである。
引退後[編集]
引退後は・・・。
引退後は、ナイスミドルな風貌を売りに、情報番組のコメンテーターとしてテレビで活躍。趣味悠々に出演するなど、タレントとして様々な方面で活動している。
もちろん、野球人としても活動しており、マスターズリーグに所属し活躍するなど、地元鳥取市のクラブチーム鳥取キタロウズの総監督を務めるなど地元野球を盛り上げているのです。2009年~2011年には巨人軍の投手コーチをするなど、プロの後輩の指導も活躍しています。
もちろん、野球人としても活動しており、マスターズリーグに所属し活躍するなど、地元鳥取市のクラブチーム鳥取キタロウズの総監督を務めるなど地元野球を盛り上げているのです。2009年~2011年には巨人軍の投手コーチをするなど、プロの後輩の指導も活躍しています。
via pds.exblog.jp
あの落合との対戦は
落合博光との対戦は打率.271、6本塁打、15打点と割と打たれている記録であるが、落合はプロで唯一精神的にしんどい天敵であったと言わせている。落合の打撃フォームが左投手は苦手な部分もあるが、速球のキレとコントロールが試合を通じで変わらず、投球術も一球ごとに変わった投げ方をするので、駆け引きではなく本能で立ち向かっていたらしい。
川口も、まともに勝負すると必ず打たれるため、一球一球を大事に丁寧に投げており、その勝負の流れを楽しんでいたそうです。
卓越した投球のプロと、打撃のプロが対戦する場面をもう一度見たいものです。
川口も、まともに勝負すると必ず打たれるため、一球一球を大事に丁寧に投げており、その勝負の流れを楽しんでいたそうです。
卓越した投球のプロと、打撃のプロが対戦する場面をもう一度見たいものです。