カール・ルイス陰謀論と、カール・ルイス自身のドーピング疑惑
薬物使用を認めながらも陰謀説を唱えているベン・ジョンソン
ソウル五輪の薬物テストの待合室でジョンソンは、ルイスとは「家族同然のつきあい」だったというアメリカの元フットボール選手アンドレ・ジャクソンと一緒にビールを飲んだ際、この人物に薬物を混入されたと主張している。
ジャクソンと2004年にロサンゼルスで出会った際に、先の検査前において錠剤のステロイドを飲料に混入させた旨をジャクソンが告白したとジョンソンは証言している。
この陰謀論に関して、カール・ルイスは自伝「Inside Track(邦題:カール・ルイス―アマチュア神話への挑戦)」のなかで、ジャクソンがジョンソンと一緒にビールを飲んでいたところを見かけていると一部事実を認めたが、この選手がジョンソン氏のビールに薬物を混入したことについては否定。
ルイスのマネージャーも、「カールはベンの陽性反応とは全く無関係だ」と答えている。
ソウル五輪ドーピングセンターのパク・ジョンセ博士も「分析結果によれば少なくとも検査の1週間前まで筋肉増強剤を服用していたはず」と他者によるドリンク等への混入疑惑を否定している。
陰謀の根拠の一つは、カール・ルイスのドーピング陽性は見逃されたこと。
検出されたのはエフェドリン(感冒薬の成分)など。
当時の国際法では出場停止を受けなければならなかったが、最終的に出場を許可されている。
カール・ルイスはこの件に関して、興奮剤を植物性の生薬から知らないうちに摂取したとし、「今は医薬品の薬物検査のリストにさえ載らないようなものだった。最初に検査を始めたとき、それ(禁止物質のリスト)に全てが載せられていたというのが真実だ。運動能力向上剤を摂取したことはないというのが事実だよ。」と主張している。
ベン・ジョンソンは、「なぜルイスがセーフで私がアウトだったか。それは私のスポンサーがイタリアのシューズ会社のディアドラで、ナイキでもアディダスでもなかったからだ。」と述べ、『もしいま、誰か一人だけ殴っていいと言われたら誰を殴りたいか』と問いかけたメディアに対して、「カール・ルイスだ。彼は私と同じこと(ドーピング)をやったはずなのに、私とは正反対の道を行った」と恨みを述べている。
スポンサーによる陰謀論も唱え、「当時ドーピングなんて誰もがやっていた。私は狙われた。私を陸上界から追放すれば、カール・ルイスが優勝する。それによって彼のスポンサーはボロ儲けができる。あの事件には、莫大なカネが絡んでいた」と語っている。
「ディアドラはナイキのような、五輪のNo.1スポンサーにもなれる企業と比べるとはるかに小さい。だが、ソウルの前年('87年)の世界選手権で私がルイスを破って世界新を記録して以来、セールスが飛躍的に伸び、世界一になろうとしていた。それが問題だった。私を犠牲にすることで、ディアドラを引きずり落としたかった誰かがいたというわけさ。それがすべてだ。」と説明した。
ソウルオリンピック後のベン・ジョンソン
1992年バルセロナ五輪、ベン・ジョンソンは100mのカナダ代表として3度目の五輪出場を果たした。
だが筋肉は細くなり全盛期のスピードはなく、1次予選は10秒55と、32人残った中で20番目。
2次予選は4位で辛くも準決勝に進んだ。
そして準決勝1組に出場したジョンソンは、スタート直後に躓き、10秒70。
ソウルオリンピック幻の金メダリストは準決勝最下位で決勝に進むことすらできなかった。
1992年 バルセロナ五輪 陸上100m準決勝
事実上の引退である。
陸上を引退した後のベン・ジョンソン
リビアのカダフィ大佐の息子やマラドーナなど、他所で受け入れられない『問題児』のコーチも引き受けた。
世界的な悪役・ベン・ジョンソン、日本では愛され続けている。
ベン・ジョンソン VS 井手らっきょ 100m対決(1994年頃)
映画『アトランタ・ブギ』(1996年公開)
ベン・ジョンソンは幻の世界最速男として自身の役で出演している。
【トリビアの泉】ベンジョンソンが追い風を利用したらどの位はやく走れるの?
【トリビアの泉】ベンジョンソンが催眠術にかかったらどの位はやく走れるの?
●ベン・ジョンソンが動く歩道を全力疾走すると100m、10.89秒である。
●イタリア旅行中に財布を盗んだ少女を全速力で追いかけたものの、振り切られてしまった。
2010年8月1日、TBS系列「クイズ☆タレント名鑑」の企画で、100mのタイムを計測した。
48歳という年齢の上に体重も100kgと往年の面影はなかったが、予想を上回る11秒50という好タイムを記録した。
【クイズ☆タレント名鑑】松野明美と800m走 対決!
82.5kgに減量して出演。
長距離走選手だった松野明美と800m競争をしたが、もともと短距離走選手ということもあり、最後は松野に大きく突き放されて負けてしまった。
1997年6月、ディエゴ マラドーナはベン・ジョンソンを専属トレーナーに任命するが、その4ヶ月後の10月には引退を表明した…。