【佐々木主浩投手】「名前がコールされた時点で試合終了」とまで言われたハマの大魔神。
2016年11月25日 更新

【佐々木主浩投手】「名前がコールされた時点で試合終了」とまで言われたハマの大魔神。

9回・彼の名前がコールされただけで、相手チームのファン・選手は敗戦を覚悟した、佐々木主浩投手。「ハマの大魔神」は海を渡り、アメリカでも"DAIMAJIN"という異名で呼ばれた。日米通算で381セーブを記録した最強のストッパーは、引退後・・・。

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マシンガン打線が日本シリーズでも大爆発!

日本シリーズでも第6戦で登板した佐々木投手は金村選手を併殺打に打ち取って胴上げ投手となります。

1998年横浜ベイスターズ日本一の瞬間

「ハマの大魔神」から「DAIMAJIN」へ

1999年にFA権を取得した佐々木投手はメジャー移籍が可能になります。前年の疲労の蓄積も影響していたのか、シーズン中に故障し戦線を離脱。この怪我の影響が懸念されたものの、オフにシアトル・マリナーズと総額1200万ドル+出来高3年(4年目は年俸500万ドルの球団オプション)という大型契約を結びます。
メジャー入りを表明

メジャー入りを表明

移籍1年目、佐々木投手はリリーフ失敗が続いた事から、中継ぎに配置転換されますが、クローザー役の投手の不調により再び抑えに復帰すると、最終的に当時のメジャー新人記録の37セーブ(2010年にネフタリ・フェリス投手が40セーブを挙げて更新)を挙げる活躍を見せ、ア・リーグの新人王に選ばれました。
シアトル・マリナーズ時代の佐々木投手

シアトル・マリナーズ時代の佐々木投手

その後も、順調にセーブを積み重ねた佐々木投手は、2002年、史上最速となるメジャー通算160試合目での通算100セーブ到達を達成。オールスターゲームにも2年連続で選出されるなど、確固たる地位を築いていきます。2003年シーズンは2度の故障者リスト入り(1度目は、腰の張り。2度目は自宅で転倒し、右脇腹を強打した事が原因)した事により、不本意な成績に終わると、マリナーズとの残り1年契約を破棄して退団。6億5000万円の2年契約を結び、横浜に復帰します。

「一緒に暮らしたかった」のは・・・。

日本球界に復帰した理由を、佐々木投手は「日本で家族と一緒に暮らすため」と説明していた程、渡米を機に佐々木投手は夫婦間ですれ違っていました。加えて、タレントの榎本加奈子さんとの不倫関係、榎本さんの妊娠によって夫婦の関係修復は不可能になり、佐々木投手と前妻は離婚します。(2005年5月に榎本さんと再婚)
榎本加奈子さん

榎本加奈子さん

日本球界復帰、そして引退。

日本球界に復帰した2004年、佐々木投手の球威は全盛期と比べてかなり衰えていましたが、数種類に変化するフォークボールと絶妙なコントロールで安定した成績を挙げていました。ただ、リードした場面に限っての登板という起用法だった為、登板試合数は25試合。1勝2敗19セーブという年俸に対しては、かなり物足りない成績に終わりました。翌2005年、度重なる怪我の影響で不振を極め、佐々木投手は引退を決意します。

※この間に横浜の抑えに台頭したクルーン投手は、メジャーリーガーであり、憧れの存在でもあった佐々木投手からアドバイスを受けたことによって開花したとも言われています。

現役引退を表明した佐々木投手は、「母親の前で投げたい」との希望により、故郷・仙台のフルキャストスタジアム宮城で行われた8月9日の巨人戦に登板。数多くの名勝負を繰りひろげてきた清原和博選手と対戦しました(結果は三振)。
最後の対戦打者は・・・

最後の対戦打者は・・・

ただ、この対戦を実現させる為に、横浜はかなり変則的な投手起用を強いられます。
(普段は救援投手である秦投手を先発させ、清原選手の第1打席で佐々木投手を投入。佐々木投手は清原選手1人を打ち取ると降板。清原選手の打席後、改めて本来先発予定だった門倉健投手を登板させるという継投策)

「涙の対決」と感動を呼んだ一方で、シーズン半ばの8月に個人的な事情で登板した事は「チームの私物化」だと批判も呼びました。この事が影響してか、登板予定だったシーズンの最終戦に佐々木投手は登板せず、引退セレモニーのみで終わります。佐々木投手が現役中に対戦した最後の打者は、高校時代からのライバルで親友でもある清原選手だったのです。

佐々木投手の日米通算成績(NPB 12年・MLB 4年):50勝54敗381セーブ

大魔神から大馬主へ?

野球選手が引退した後、セカンドライフをどう過ごすか・・・という事が問題になっていますが、佐々木投手はその点で「大成功している」と言っていいのではないでしょうか。野球解説者としても活躍する一方で、佐々木投手は2006年11月にはJRAの馬主登録を行っており、20012年には所有馬のヴィルシーナ(栗東:友道康夫厩舎)がクイーンカップで1着となり馬主として初めて重賞競走を制覇。翌週の阪急杯でもマジンプロスパーが優勝。更に2013年5月12日、ヴィクトリアマイルでヴィルシーナが優勝し、初のGI競走制覇を果たすなど、馬主や競馬評論家としても活躍しています。

ちなみに一部の競馬ファンの間では佐々投手の予想は、現役時代と同じで「大当たりさせない」だとか、「タマ数が多い」(予想点数が多い)とも…。
加奈子婦人と愛馬と

加奈子婦人と愛馬と

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