5代目凮月堂当主の代に暖簾分けの制度が導入され、それによって多くの風月堂が誕生したようですね。
代表的な菓子「ゴーフル」について
東京発祥説と関西発祥説とがあるようです。
凮月堂を代表する菓子とされるゴーフルは、昭和初期に一門で発売が開始された。ゴーフルの開発・発売に至る経緯については東京発祥説と関西発祥説がある。
東京発祥説では、昭和初期に「カルルス煎餅」という薄焼き煎餅をヒントに開発された。カルルス煎餅は明治より凮月堂一門で販売していた商品で、ゴーフル煎餅に酷似した形状の素焼き煎餅であり、炭酸せんべいの原型とも言われるものである。昭和初期、南鍋町凮月堂の工場では凮月堂一門の製品を開発・生産しており、ここで一門の職人たちの試行錯誤が行われた結果、粉の配合や、アメリカ製のショートニングクリームを挟むなどの工夫がこらされ、1929年(昭和4年)に現在につながるゴーフルが完成したとされる。
関西発祥説は、大正の終わりから昭和初期に、米津凮月堂より暖簾分けされた大阪・北浜凮月堂(現存せず)において、当時北浜凮月堂と密接な関係のあった神戸凮月堂創業者の吉川市三の指揮のもと開発され、その後他の凮月堂一門でも売り出された説である。神戸凮月堂が記すところによれば、1926年(大正15年)頃にもたらされたフランスの焼き菓子をモデルとして、和洋菓子の職人が開発を進め、1927年(昭和2年)に発売にこぎつけた。ただし発売当時の製法は現在のものとは異なり、大瓦せんべいと同様の焼き方を行う、手間のかかるものであったという。
戦前、凮月堂一門は互いに協力して商品の開発や製造、販売を行っており、ゴーフルは凮月堂一門にて共有されていたが、戦後ゴーフルの類似品が氾濫した為、神戸凮月堂がゴーフルの商標を出願した。
大住省三郎が1905年(明治38年)、上野広小路に開いた店舗が現在の上野凮月堂である。凮月堂総本店は店主の夭折が続き、1950年代頃に休業している。その結果、現在、初代大住喜右衛門の血統を受け継いでいるのは上野凮月堂のみとなった。
5代目喜右衛門は凮月堂当主として暖簾分けの制度を導入した。凮月堂総本店より最初に暖簾を分けられたのは、当時の番頭であった米津松造で、1872年(明治5年)に両国の若松町へ出店したのが「凮月堂米津本店」(現在の両国凮月堂)である。凮月堂米津本店からは凮月堂総本店の承認のもと、暖簾分けが多く行なわれた。この時暖簾分けされた店としては、神戸凮月堂、長野凮月堂、甲府凮月堂が現存している。
米津松造は銀座並木通りに西洋料理を出す店として「米津分店南鍋町凮月堂」を出店し、次男の恒次郎を店主としたが、恒次郎の異母弟であり養子の米津修二の代に経営権を失い、新たな経営者に譲渡されたのが現在の銀座凮月堂である。
また戦後、米津修二が再度、銀座みゆき通りに「米津凮月堂」として新たな凮月堂を出店するが経営破たん、別会社へ経営を引き継ぎ、銀座中央通りで再度営業を開始した。これが現在の東京凮月堂である。結果、現在の銀座凮月堂、東京凮月堂は創業時からの凮月堂一門とは別の流れの会社となっている。
引用:wikipedia