『大正テレビ寄席』とは?
東京都渋谷区のJR(旧:国鉄)渋谷駅西口前にあった東急文化会館(渋谷ヒカリエの場所にあった複合娯楽施設)地階の映画館・東急ジャーナル(のちの東急レックス→渋谷東急3)にて公開収録された番組で、ウクレレ漫談でもお馴染みの牧伸二が司会・進行を勤めた。
番組でのウクレレ漫談が受けて、当時全くの無名だった牧の「出世作」となる。
公開収録になった理由
制作を担当した山下武(柳家金語楼の実子、元日劇舞台監督)は「5秒間に1回笑わせる」「今までにない革新的な笑いを提供する」といった確固たるコンセプトを持って番組製作にあたったという。
『大正テレビ寄席』の番組制作モットー
新しい笑いを生み出し、番組をモダン寄席にする事をモットーに、制作者は寄席に拘らずキャバレーやストリップ小屋、ジャズ喫茶などあらゆる場所で取材し、出演交渉を行った。また、「お笑い横丁」はテレビ局側と東急がそれぞれ出演交渉を行っていたが、東急側が独自に交渉した芸人(すなわち放送には登場しない芸人)についてもつぶさにチェックし、観客の受けが良ければテレビ寄席にも登場させた。その結果、新しいタイプのお笑い芸人を多く輩出する切っ掛けとなり。また「演芸ブーム」の牽引役となった。
多種多彩だった出演芸人たち
噺家(落語家)
林家三平(初代)、橘家 圓蔵(8代目、当時は月の家圓鏡で出演)、古今亭志ん朝、三遊亭金馬(4代目、当時は三遊亭小金馬として出演)、三遊亭圓歌(3代目、当時は三遊亭歌奴として出演)、桂米丸
、など
【林家三平伝説】寄席に遅れて来た客をも笑いに
橘家円蔵(八代目)師匠の落語「大山家の人々」
三代目古今亭志ん朝 - 浜野矩隨
その芸風は一声でいうと「華やか」。声の調子、強弱の付け方、間の取り方、そのすべてがまさに落語の教科書のような存在だった。
古今亭志ん朝は、古今亭志ん生という「落語の神様」の息子というサラブレッドでありながら、破天荒な芸風の親とは全く異なる、きっちり、かっちりした伝統的な古典落語の世界を作り上げ、テレビや舞台でも活躍した「アイドル」的な存在だった。
若手にアドバイスする時には「少し(演技が)クサイぐらいで良い」と伝えたと言う。観客が聞きたい江戸の世界をあえて強めに打ち出すことで、立川談志に「唯一金を払ってみたい落語家」と言わせる境地にまで辿り着いた人だろう。
2001年、63歳で亡くなった時には「最後の落語家」と呼ばれて惜しまれた。生きていればもっと名演が見れたかもしれないと思うのは私だけであろうか??
親子酒 三遊亭金馬 四代目 酒の好きな親子が禁酒をしようとしたが・・伝統の落語を名人の貴重な古典落語を樂しんでください
現在、現役落語家では最長の高座歴を誇り、戦中・戦後の落語界を知る数少ない落語家である。
三遊亭円歌授業中
「授業中」「浪曲社長」「月給日」には登場人物に吃音者(ドモリ)が出てくるが、それは彼自身もまた吃音者であったからである。CD「中沢家の人々完全版」によると、近所に住んでいた幼馴染で後にアナウンサーとなる小川宏が吃音者で、真似をしていたら自分もなってしまったという。落語家になった理由もそれの克服だが、入門時に(落語家への入門を懇願され、)激怒した親から戸籍を外されてしまった。また、吃音者であることは駅員時代にも災いし、偶然同じく吃音者だった旧日本軍の人間の接客をしていた際、つられてどもって話していたところ、マネしてバカにしていると勘違いして激怒した軍人に危うく切り捨てられそうになった。やはり吃音癖のある二代目円歌に弟子入りしたのは偶然であったという。以上の吃音に関する(いささか誇張も混じっていると思しい)エピソードは3代目本人の語るところによるものであるが、7代目立川談志は「あれは師匠に合わせた誇張で、(3代目)圓歌兄さんはどもっちゃいない」と生前に語っている。真偽は定かでない。
桂米丸「旅行かばん」
生家にあった大量の古典落語レコードがきっかけとなり、落語の魅力に取り憑かれる。昭和21年4月、”おばあさんの今輔”で知られる新作落語の五代目 古今亭今輔に入門。前座修行なしで翌年に二つ目昇進という破格のスタート。現在まで新作落語の噺家として現役最年長で活発な活動を続けている。落語芸術協会会長を勇退し、現在は最高顧問。
漫談、漫才、コント、コミックバンドなど
漫談では、東京ぼん太、堺すすむ、牧野周一(牧伸二の師匠)、南州太郎、早野凡平、桜井長一郎、ケーシー高峰など。
漫才では、Wけんじ、コロムビア・トップ・ライト、内海桂子・内海好江、獅子てんや・瀬戸わんや、青空球児・好児、春日三球・照代など。
コント、コミックバンドでは、てんぷくトリオ、トリオ・スカイライン、漫画トリオ、ナンセンス・トリオ、チャンバラトリオ、東京コミックショウ、ドンキーカルテット、玉川カルテットなど。
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