当時、バラエティー番組部門で『笑点』より人気があった『大正テレビ寄席』とは何だ?
2017年3月16日 更新

当時、バラエティー番組部門で『笑点』より人気があった『大正テレビ寄席』とは何だ?

読者の皆様は『笑点』というテレビのバラエティー番組はよくご存知ではないでしょうか?  その『笑点』が始まったのは1966年(昭和41年)5月15日からだったのですが、実は、その3年も前の1963年(昭和38年)6月12日から『大正テレビ寄席』なるバラエティー番組が産声を上げています。あいにく、1978年(昭和53年)6月25日までの約15年間でピリオドを打ってしまいましたが、『笑点』より視聴率が高く、茶の間の人気番組の一つに数えられていました。そんな『大正テレビ寄席』を振り返って見ましょう!!

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『大正テレビ寄席』とは?

『大正テレビ寄席』(たいしょうテレビよせ)とは、1963年(昭和38年)6月12日から1978年(昭和53年)6月25日迄(1963年9月25日までは水曜 12:15 - 12:45の30分間だったが、1963年10月13日放送分から日曜 12:00 - 12:45の45分間)、テレビ朝日系列(全国朝日放送、放送開始当初はNETテレビ)で放送された演芸バラエティー番組であった。スポンサーが大正製薬一社で提供する、公開収録形式の番組であった。

東京都渋谷区のJR(旧:国鉄)渋谷駅西口前にあった東急文化会館(渋谷ヒカリエの場所にあった複合娯楽施設)地階の映画館・東急ジャーナル(のちの東急レックス→渋谷東急3)にて公開収録された番組で、ウクレレ漫談でもお馴染みの牧伸二が司会・進行を勤めた。

番組でのウクレレ漫談が受けて、当時全くの無名だった牧の「出世作」となる。
司会・番組進行役の故牧伸二

司会・番組進行役の故牧伸二

「あ~んあああ、やんなちゃった!!」でおなじみでした。

公開収録になった理由

公録収録会場の東急レックス側としては、毎週金曜夕方に『東急文化寄席』という演芸興行を、月曜夕方に『お笑い横丁』という演芸興行を、ともに有料で行っていた。番組収録はあくまでも月曜の『お笑い横丁』の一部といった位置付けであった。したがい、その他の公録収録番組と異なり観客の目がシビアにならざるを得ず、中途半端な笑いは許されなかった。
制作を担当した山下武(柳家金語楼の実子、元日劇舞台監督)は「5秒間に1回笑わせる」「今までにない革新的な笑いを提供する」といった確固たるコンセプトを持って番組製作にあたったという。
JR渋谷駅西口前にあった東急文化会館

JR渋谷駅西口前にあった東急文化会館

現在は”渋谷ヒカリエ”がそびえています。

『大正テレビ寄席』の番組制作モットー

新しく革新的な番組作りのため、演芸バラエティー番組にも拘らず、定番の落語家などはほとんど登場せず、テレビ寄席に出演したとしても、立って漫談や現代にも通ずる新作落語などを演じる程度であった(ただし、例外はどこにでもあるように、古今亭志ん朝などは本格落語を披露)。本格的な高座の中継や大喜利といった企画は後続番組としてネットチェンジまで午後1時台に放送されていた『日曜演芸会』の方で行われた。
新しい笑いを生み出し、番組をモダン寄席にする事をモットーに、制作者は寄席に拘らずキャバレーやストリップ小屋、ジャズ喫茶などあらゆる場所で取材し、出演交渉を行った。また、「お笑い横丁」はテレビ局側と東急がそれぞれ出演交渉を行っていたが、東急側が独自に交渉した芸人(すなわち放送には登場しない芸人)についてもつぶさにチェックし、観客の受けが良ければテレビ寄席にも登場させた。その結果、新しいタイプのお笑い芸人を多く輩出する切っ掛けとなり。また「演芸ブーム」の牽引役となった。

多種多彩だった出演芸人たち

噺家(落語家)

前記で記述したように、噺家(落語家)は基本的に立ち高座だった(テレビのテロップでは「立体落語」と紹介されていた)。そのためか新作落語に強い人や、話術に優れている人が多かった(例外もあり)。下記に出演回数が多い方や印象が強く残っている方を列挙する。

林家三平(初代)、橘家 圓蔵(8代目、当時は月の家圓鏡で出演)、古今亭志ん朝、三遊亭金馬(4代目、当時は三遊亭小金馬として出演)、三遊亭圓歌(3代目、当時は三遊亭歌奴として出演)、桂米丸
、など

【林家三平伝説】寄席に遅れて来た客をも笑いに

本名は海老名泰一郎(えびなやすいちろう)。それまでの落語とは一線を画す破天荒な「三平落語」で人気者となり、爆笑王と呼ばれた噺家。「どうもスィマセーン!」「もぅ大変なんすから」「ヨシ子さ~ん」などの流行語を生み出した。終戦後、復員した後に噺家の道を目指し、父・七代目林家正蔵に入門。正蔵の病没後は、月の家圓鏡(後の七代目橘家圓蔵)の弟子となり、昭和33年に真打ちに昇進。その後、テレビや寄席を中心に爆発的な人気をはくす。昭和54年に脳内出血で倒れ、再起不能をささやかれながらも、壮絶なリハビリの末に高座に復活。しかし、翌年の昭和55年、肝臓がんに倒れ、9月20日に死去。享年54。

橘家円蔵(八代目)師匠の落語「大山家の人々」

黒縁眼鏡がトレードマークの人気落語家、8代目橘家円蔵(たちばなや・えんぞう、本名・大山武雄=おおやま・たけお)。1965年(昭40)に真打ちに昇進して月の家円鏡となった。速いテンポでナンセンスギャグを連発し、相手を持ち上げる「ヨイショ」や、妻をネタにした「うちのセツコが」のギャグが大当たり。テレビで引っ張りだことなり、CMにも多数出演した。口ぐせは「うまいのは(古今亭)志ん朝、(立川)談志は達者。アタシは面白い落語家を目指す」。言葉通りどこまでも面白さを追求した。2015年10月7日午前3時30分、心室細動のため死去。

三代目古今亭志ん朝 - 浜野矩隨

落語に「王道」というものがあるのなら、まさにその道をまっすぐ歩いたのが古今亭志ん朝だろう。
その芸風は一声でいうと「華やか」。声の調子、強弱の付け方、間の取り方、そのすべてがまさに落語の教科書のような存在だった。
古今亭志ん朝は、古今亭志ん生という「落語の神様」の息子というサラブレッドでありながら、破天荒な芸風の親とは全く異なる、きっちり、かっちりした伝統的な古典落語の世界を作り上げ、テレビや舞台でも活躍した「アイドル」的な存在だった。
若手にアドバイスする時には「少し(演技が)クサイぐらいで良い」と伝えたと言う。観客が聞きたい江戸の世界をあえて強めに打ち出すことで、立川談志に「唯一金を払ってみたい落語家」と言わせる境地にまで辿り着いた人だろう。
2001年、63歳で亡くなった時には「最後の落語家」と呼ばれて惜しまれた。生きていればもっと名演が見れたかもしれないと思うのは私だけであろうか??

親子酒 三遊亭金馬 四代目 酒の好きな親子が禁酒をしようとしたが・・伝統の落語を名人の貴重な古典落語を樂しんでください

4代目三遊亭金馬は、1941年(昭和16年)、12歳で三代目三遊亭金馬に弟子入りし、少年落語家・山 遊亭金時としてデビュー、1945年(昭和20年)には二つ目に昇進し、三遊亭小金馬へと改名します。1955年(昭和30年)、一龍斎貞鳳(いちりゅうさい ていほう)、江戸家猫八とともにバラエティ番組の元祖といわれる「お笑い三人組」に出演、TV草創期に大変な人気を博します。1958年(昭和33年)、真 打に昇進し、1967年(昭和42年)に、4代目三遊亭金馬を襲名した。
現在、現役落語家では最長の高座歴を誇り、戦中・戦後の落語界を知る数少ない落語家である。

三遊亭円歌授業中

岩倉鉄道学校(現岩倉高等学校)卒業後、運輸通信省東京鉄道局(当時の国鉄)に入局し、山手線新大久保駅で駅員を務めた。終戦を迎えた1945年8月に東京鉄道局を退職し、同年9月に2代目円歌に入門した。前座名は歌治。1948年4月に二つ目に昇進し、2代目三遊亭歌奴に改名した。1958年9月に真打昇進した。
「授業中」「浪曲社長」「月給日」には登場人物に吃音者(ドモリ)が出てくるが、それは彼自身もまた吃音者であったからである。CD「中沢家の人々完全版」によると、近所に住んでいた幼馴染で後にアナウンサーとなる小川宏が吃音者で、真似をしていたら自分もなってしまったという。落語家になった理由もそれの克服だが、入門時に(落語家への入門を懇願され、)激怒した親から戸籍を外されてしまった。また、吃音者であることは駅員時代にも災いし、偶然同じく吃音者だった旧日本軍の人間の接客をしていた際、つられてどもって話していたところ、マネしてバカにしていると勘違いして激怒した軍人に危うく切り捨てられそうになった。やはり吃音癖のある二代目円歌に弟子入りしたのは偶然であったという。以上の吃音に関する(いささか誇張も混じっていると思しい)エピソードは3代目本人の語るところによるものであるが、7代目立川談志は「あれは師匠に合わせた誇張で、(3代目)圓歌兄さんはどもっちゃいない」と生前に語っている。真偽は定かでない。

桂米丸「旅行かばん」

4代目桂 米丸(かつら よねまる、1925年4月6日 - )は、神奈川県横浜市出身の落語家。社団法人落語芸術協会最高顧問。本名は須川 勇(すがわ いさむ)。
生家にあった大量の古典落語レコードがきっかけとなり、落語の魅力に取り憑かれる。昭和21年4月、”おばあさんの今輔”で知られる新作落語の五代目 古今亭今輔に入門。前座修行なしで翌年に二つ目昇進という破格のスタート。現在まで新作落語の噺家として現役最年長で活発な活動を続けている。落語芸術協会会長を勇退し、現在は最高顧問。

漫談、漫才、コント、コミックバンドなど

出演する漫談家や漫才師などは、大体関東一円のお笑い劇場や寄席などを中心に活動している方々だったが、関西からも、時々来ていたようである。一例を言うと、かしまし娘、横山やすし・西川きよし、中田カウス・ボタン、夢路いとし・喜味こいし、レツゴー三匹などである。下記に出演回数が多い方や印象が強く残っている方を列挙する。

漫談では、東京ぼん太、堺すすむ、牧野周一(牧伸二の師匠)、南州太郎、早野凡平、桜井長一郎、ケーシー高峰など。
漫才では、Wけんじ、コロムビア・トップ・ライト、内海桂子・内海好江、獅子てんや・瀬戸わんや、青空球児・好児、春日三球・照代など。
コント、コミックバンドでは、てんぷくトリオ、トリオ・スカイライン、漫画トリオ、ナンセンス・トリオ、チャンバラトリオ、東京コミックショウ、ドンキーカルテット、玉川カルテットなど。

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