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1965年、テレビアニメ「恐妻天国」で怪獣の声優をすると共に、団鬼六監督のピンク映画「花と蛇」にも出演。
1966年、「河童の清作」時代のカッパ刈り、日本チャンピオン時代の丸坊主を経て、丸坊主で前髪だけ残して垂らす独自のヘアスタイルを確立。
1968年1月、斉藤清作が引退して4年後、週刊少年マガジンで「あしたのジョー」が連載開始。
フラリと東京・山谷にあらわれた孤児で不良の矢吹丈(ジョー)が、元プロボクサーで現アル中の丹下団平と知り合い、ボクシングをはじめ、幾多の困難に出会いながら、最後は世界チャンピオンと戦い、完全燃焼し真っ白な灰になって死んでしまう?というストーリー。
辰吉丈一郎の名前とボクシングを始まるきっかけになったのをはじめ、多くの若者がボクシングを志し、ライバル、力石徹が作中で死んだとき、葬儀が行われたり
(1970年3月24日)
よど号ハイジャック事件(1970年3月31日)で、ハイジャック犯が
「われわれは明日のジョーである」
という声明を残すなど、その影響は大きく「戦後最大のヒットマンガ」の1つといわれる作品。
この中で矢吹丈はノーガード戦法をとるが、斉藤清作がそのモデルとなったといわれている。
1969年、団鬼六が『鬼プロ』を設立。
渋谷の桜ヶ丘にアパートを借りて事務所としたが、自分の作品に出演したことがあり、浅草のストリップ劇場に出演していたたこ八郎をアシスタントとして雇った。
事務所の留守番が主な仕事で、食事、掃除、洗濯なども行った。
酔って大切な将棋盤をタクシーに忘れたり、将棋の駒を磨くようにいわれ、石鹸を使って水洗いしてフニャフニャにしてしまったり、食事は前日の飲み会の残りものを入れただけの「ちゃんこ鍋」ばからだったが、団鬼六は
「或る意味では彼は私にとって欠くべからざる人間であった」
といい、たこ八郎を座長とする「たこ劇団」をプロデュース。
主にポルノ映画館で映画の前座として裸踊りをやって好評を得た。
「ピンク実演は信じられないほどの入りだった。
たこ八郎がベットシーンやりながら『ベトナムでは戦争しているのにこれでいいのだろーか』といったのが印象に残っている」
(山本晋也)
1970年、外波山文明の劇団に参加。
演劇に一途な外波山文明は、野外テント劇を行うなど、既存の概念にとらわれることがなかった。
たこ八郎は、意欲ある座長の下で、セリフはあまりないが、舞台袖からヒョロヒョロと叫びながら走り出て舞台を横切ったり、女優に思いきり殴れたりするボケ役を演じた。
殴られてひっくり返り、立ち上がってまた殴られてひっくり返り、客はドッと沸かせ、劇団に欠かせない存在となった。
夜は外波山文明が新宿ゴールデン街に経営するバー「クラクラ」を根城とした。
1966年、「河童の清作」時代のカッパ刈り、日本チャンピオン時代の丸坊主を経て、丸坊主で前髪だけ残して垂らす独自のヘアスタイルを確立。
1968年1月、斉藤清作が引退して4年後、週刊少年マガジンで「あしたのジョー」が連載開始。
フラリと東京・山谷にあらわれた孤児で不良の矢吹丈(ジョー)が、元プロボクサーで現アル中の丹下団平と知り合い、ボクシングをはじめ、幾多の困難に出会いながら、最後は世界チャンピオンと戦い、完全燃焼し真っ白な灰になって死んでしまう?というストーリー。
辰吉丈一郎の名前とボクシングを始まるきっかけになったのをはじめ、多くの若者がボクシングを志し、ライバル、力石徹が作中で死んだとき、葬儀が行われたり
(1970年3月24日)
よど号ハイジャック事件(1970年3月31日)で、ハイジャック犯が
「われわれは明日のジョーである」
という声明を残すなど、その影響は大きく「戦後最大のヒットマンガ」の1つといわれる作品。
この中で矢吹丈はノーガード戦法をとるが、斉藤清作がそのモデルとなったといわれている。
1969年、団鬼六が『鬼プロ』を設立。
渋谷の桜ヶ丘にアパートを借りて事務所としたが、自分の作品に出演したことがあり、浅草のストリップ劇場に出演していたたこ八郎をアシスタントとして雇った。
事務所の留守番が主な仕事で、食事、掃除、洗濯なども行った。
酔って大切な将棋盤をタクシーに忘れたり、将棋の駒を磨くようにいわれ、石鹸を使って水洗いしてフニャフニャにしてしまったり、食事は前日の飲み会の残りものを入れただけの「ちゃんこ鍋」ばからだったが、団鬼六は
「或る意味では彼は私にとって欠くべからざる人間であった」
といい、たこ八郎を座長とする「たこ劇団」をプロデュース。
主にポルノ映画館で映画の前座として裸踊りをやって好評を得た。
「ピンク実演は信じられないほどの入りだった。
たこ八郎がベットシーンやりながら『ベトナムでは戦争しているのにこれでいいのだろーか』といったのが印象に残っている」
(山本晋也)
1970年、外波山文明の劇団に参加。
演劇に一途な外波山文明は、野外テント劇を行うなど、既存の概念にとらわれることがなかった。
たこ八郎は、意欲ある座長の下で、セリフはあまりないが、舞台袖からヒョロヒョロと叫びながら走り出て舞台を横切ったり、女優に思いきり殴れたりするボケ役を演じた。
殴られてひっくり返り、立ち上がってまた殴られてひっくり返り、客はドッと沸かせ、劇団に欠かせない存在となった。
夜は外波山文明が新宿ゴールデン街に経営するバー「クラクラ」を根城とした。
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30歳で売れないコメディアンだったたこ八郎は、山本晋也のピンクコメディ映画をみて、直接、家に電話をかけた。
電話をとった山本晋也の妻は
「たこの八ちゃんという人からかかってきた」
とゲラゲラ笑いながら受話器を渡した。
「あのぉ監督の映画が大好きなんです
僕も一応、役者なんですが、1度使ってもらえませんか?
名前、たこです。
たこ八郎です」
山本晋也はたこ八郎と会い、その持ち味にほれ込み、すぐに自分の映画に起用することを決めた。
「おかしかったよ。
あれは何の映画だったか、たこちゃんが意味なく鉄棒にぶら下がってるんだよね。
そういう非常に奇妙な映画ですよ。
そうじゃないとしようがないんだよ。
セリフはいえないし、
『しようがねえなあ、ここ公園だろう。
じゃ、たこちゃん、そこにぶら下がってるか』
っていうと
『へーい』
なんてぶら下がってるんだよね。
するとそこへ多少セリフいえるやつがやってくる。
そこで下手にからかうと自分の芝居が殺されちゃうから、それを無視してやっている。
これで実に面白い画面が構成できたわけですね」
電話をとった山本晋也の妻は
「たこの八ちゃんという人からかかってきた」
とゲラゲラ笑いながら受話器を渡した。
「あのぉ監督の映画が大好きなんです
僕も一応、役者なんですが、1度使ってもらえませんか?
名前、たこです。
たこ八郎です」
山本晋也はたこ八郎と会い、その持ち味にほれ込み、すぐに自分の映画に起用することを決めた。
「おかしかったよ。
あれは何の映画だったか、たこちゃんが意味なく鉄棒にぶら下がってるんだよね。
そういう非常に奇妙な映画ですよ。
そうじゃないとしようがないんだよ。
セリフはいえないし、
『しようがねえなあ、ここ公園だろう。
じゃ、たこちゃん、そこにぶら下がってるか』
っていうと
『へーい』
なんてぶら下がってるんだよね。
するとそこへ多少セリフいえるやつがやってくる。
そこで下手にからかうと自分の芝居が殺されちゃうから、それを無視してやっている。
これで実に面白い画面が構成できたわけですね」
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ある夜、行きつけの店で飲んでいたたこ八郎は、男と口論となりケンカに発展。
元ボクサーとして拳は使わなかったが、右耳にかみつかれ、1/3をカジりとられてしまった。
「耳がとれちゃった!
もう映画にも出られない」
たこ八郎は、あわてて山本晋也に電話を入れた。
「電話でね、なんかね、耳とられちゃったってなんだかわかんないだよ。
まあ耳とられたっていうから、まさか耳カジられたとは思わないじゃないですか。
わかった、わかった、わかった。
とられれたんだろ、わかった。
とりかえしてやるからって、俺、バカなこといって切っちゃったんだよ。
それでその後、どうもそうらしいと。
本人は役者はもうダメだと。
なくなっちゃったものはいいじゃない、しょうがないじゃないかって。
そのときアイツ、おかしいんだよね、やっぱり。
人の顔ジーッとみてんだよ。
なんかね、みてるようでみてないような妙な目つきでね
で、俺の顔みてるから、こっちもそういうときって正直にいわなきゃしょうがないからね。
とれちゃったものはしょうがないんだからつって。
それモンで映画やろうじゃないかって。
そしたら(右耳を指で指しながら)コレもんですかっていうもんだからね」
このときの山本晋也との会話がたこ八郎の中で何かと共鳴した。
「そうか、そういうことか!
左目がみえない。
耳がない。
でもそうなっちゃったんだからしょうがない。
これが私ですってみてもらえばいいじゃないか。
それでお客さんが喜んでくれるなら」
元ボクサーとして拳は使わなかったが、右耳にかみつかれ、1/3をカジりとられてしまった。
「耳がとれちゃった!
もう映画にも出られない」
たこ八郎は、あわてて山本晋也に電話を入れた。
「電話でね、なんかね、耳とられちゃったってなんだかわかんないだよ。
まあ耳とられたっていうから、まさか耳カジられたとは思わないじゃないですか。
わかった、わかった、わかった。
とられれたんだろ、わかった。
とりかえしてやるからって、俺、バカなこといって切っちゃったんだよ。
それでその後、どうもそうらしいと。
本人は役者はもうダメだと。
なくなっちゃったものはいいじゃない、しょうがないじゃないかって。
そのときアイツ、おかしいんだよね、やっぱり。
人の顔ジーッとみてんだよ。
なんかね、みてるようでみてないような妙な目つきでね
で、俺の顔みてるから、こっちもそういうときって正直にいわなきゃしょうがないからね。
とれちゃったものはしょうがないんだからつって。
それモンで映画やろうじゃないかって。
そしたら(右耳を指で指しながら)コレもんですかっていうもんだからね」
このときの山本晋也との会話がたこ八郎の中で何かと共鳴した。
「そうか、そういうことか!
左目がみえない。
耳がない。
でもそうなっちゃったんだからしょうがない。
これが私ですってみてもらえばいいじゃないか。
それでお客さんが喜んでくれるなら」
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不思議なことに、この後、寝小便が止まり始めた。
おそらく硬膜下血腫が徐々に吸収されていったと思われ、記憶障害や言語障害も消えていったが、芸人としてしゃべり方は戻さなかった。
「今度、寝小便するのは死ぬときだ」
と思えるようになり、由利徹の家を出て以来、12年ぶりに、新宿百人町の木造モルタル2階建てのアパートで自分の部屋を借りた。
百人町は、韓国系、中国系、アラブ系、エスニック系、多くの外国人が生活し、多様性に富んだ町。
玄関は、住人の靴が脱ぎ捨てられていて、2階への階段には太いロープが渡してあって、
「これあっから便利なの」
とたこ八郎はそれにつまって1段1段ゆっくり上がる。
2階の廊下の突き当たり左の角部屋が自分の部屋で、6畳にベッドとコタツ、カラーテレビがあり、2つある窓の1つにはカーテンはなく、向こうには新宿歌舞伎町が、下には墓場がみえた。
「俺、マンションって嫌いなんだよね。
冷たい感じがすっから。
木がいいよ。
やっぱり木だよ。
うん」
たこ八郎は、数年後、新宿区富久町に最後の引っ越しを行うが、そこも木造モルタルのアパートだった。
どれだけギャラをもらっても、木造モルタルのアパートで、ベッド、コタツ、14インチのカラーテレビだけ。
マンションに移ったり、ましてや一軒家を構えるつもりなんぞ、まったくなかった。
脳の障害が治っても酒好きは直らず、仕事中を除いてほとんど毎日、酒を飲んでは眠り、目覚めては飲んだ。
若い女性がファンだといって近寄ってくると、その手に触れたがり、柔らかい指をつまむように持って飲み続けた。
気の向くまま新宿をさまよい、新宿界隈をトボトボとほっつき歩き、安い酒をたくさん飲んで、アパートに帰ると、
「自分のウチが1番いいや」
とホッとしながら、また一杯。
寝転べば3分以内にいびきをかいた。
欠損した右耳については、こう思っていた。
「この耳もこれで結構いいんだよ。
人の話が少しずつ聞けるようになった。
前はそういうことなかったからね。
『俺が、俺が』だったから。
俺、この耳がね、ちゃんとしてたら、今ごろ生きていられないんじゃないかなって思ったりするのね」
おそらく硬膜下血腫が徐々に吸収されていったと思われ、記憶障害や言語障害も消えていったが、芸人としてしゃべり方は戻さなかった。
「今度、寝小便するのは死ぬときだ」
と思えるようになり、由利徹の家を出て以来、12年ぶりに、新宿百人町の木造モルタル2階建てのアパートで自分の部屋を借りた。
百人町は、韓国系、中国系、アラブ系、エスニック系、多くの外国人が生活し、多様性に富んだ町。
玄関は、住人の靴が脱ぎ捨てられていて、2階への階段には太いロープが渡してあって、
「これあっから便利なの」
とたこ八郎はそれにつまって1段1段ゆっくり上がる。
2階の廊下の突き当たり左の角部屋が自分の部屋で、6畳にベッドとコタツ、カラーテレビがあり、2つある窓の1つにはカーテンはなく、向こうには新宿歌舞伎町が、下には墓場がみえた。
「俺、マンションって嫌いなんだよね。
冷たい感じがすっから。
木がいいよ。
やっぱり木だよ。
うん」
たこ八郎は、数年後、新宿区富久町に最後の引っ越しを行うが、そこも木造モルタルのアパートだった。
どれだけギャラをもらっても、木造モルタルのアパートで、ベッド、コタツ、14インチのカラーテレビだけ。
マンションに移ったり、ましてや一軒家を構えるつもりなんぞ、まったくなかった。
脳の障害が治っても酒好きは直らず、仕事中を除いてほとんど毎日、酒を飲んでは眠り、目覚めては飲んだ。
若い女性がファンだといって近寄ってくると、その手に触れたがり、柔らかい指をつまむように持って飲み続けた。
気の向くまま新宿をさまよい、新宿界隈をトボトボとほっつき歩き、安い酒をたくさん飲んで、アパートに帰ると、
「自分のウチが1番いいや」
とホッとしながら、また一杯。
寝転べば3分以内にいびきをかいた。
欠損した右耳については、こう思っていた。
「この耳もこれで結構いいんだよ。
人の話が少しずつ聞けるようになった。
前はそういうことなかったからね。
『俺が、俺が』だったから。
俺、この耳がね、ちゃんとしてたら、今ごろ生きていられないんじゃないかなって思ったりするのね」
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1971年、引退以来、7年間、ボクシング界から消息を絶っていたたこ八郎が、おばあちゃん(笹崎たけし会長の母親)が亡くなると、ひょっこり姿を現した。
その間、たこ八郎に負けた中村剛は、たこ八郎に勝ったチャチャイ・チオノイに勝って東洋太平洋チャンピオンになっていて、海老原博幸は、2度、世界フライ級チャンピオンになっていた。
そしてファイティング原田は、世界バンタム級チャンピオンとなって日本人初の2階級制覇を成し遂げていたが、そのときもたこ八郎は激励にも祝いにもいかなかった。
たこ八郎は火葬場で遺骨をもらって持ち帰り、
「おばあちゃん、僕の中に入っててね」
と語りかけながらポリポリと食べた。
同年、高倉健主演のシリーズ映画『新・網走番外地』に出演。
チンピラ役をやらせれば右に出る者がいないといわれるほどハマり役となった。
1973年、TBS、小川真由美主演のドラマ『アイフル大作戦』のチョイ役でテレビ初出演。
新宿百人町に飲み屋『たこ部屋』を開いた。
(この店は数年続いた)
1974年、鈴木則文監督『聖獣学園』に出演。
1976年、TBS のテレビドラマ「さくらの唄」にレギュラー出演。
桃井かおりに惚れている男役で、みとれてしまって自転車で電柱にぶつかったり川に落ちたりした。
「日本ではそういうのあんまりないんだけど、僕は好きなのね。
無機的な役っていうか。
『さぞ痛いだろうな』というところで、おかしさと憐びんというか同情を買うと。
アメリカ映画ではよくあるギャグなんだけどね。
ドーンとブチ当たっといてパッとシーンが変わるという。
とにかく凄いんだよ、アイツは。
何に当たっても平気なんだよ。
僕はホントにやるに勝るものはないと思うのね。
とくにギャグの場合はね。
高いところから飛び下りるスタントにしてもそうなんだけど、おかしいってことはね、『可哀いそう』とか『痛いだろうな』っていうのはシンパシィになるのね」
(久世光彦、テレビプロデューサー)
その間、たこ八郎に負けた中村剛は、たこ八郎に勝ったチャチャイ・チオノイに勝って東洋太平洋チャンピオンになっていて、海老原博幸は、2度、世界フライ級チャンピオンになっていた。
そしてファイティング原田は、世界バンタム級チャンピオンとなって日本人初の2階級制覇を成し遂げていたが、そのときもたこ八郎は激励にも祝いにもいかなかった。
たこ八郎は火葬場で遺骨をもらって持ち帰り、
「おばあちゃん、僕の中に入っててね」
と語りかけながらポリポリと食べた。
同年、高倉健主演のシリーズ映画『新・網走番外地』に出演。
チンピラ役をやらせれば右に出る者がいないといわれるほどハマり役となった。
1973年、TBS、小川真由美主演のドラマ『アイフル大作戦』のチョイ役でテレビ初出演。
新宿百人町に飲み屋『たこ部屋』を開いた。
(この店は数年続いた)
1974年、鈴木則文監督『聖獣学園』に出演。
1976年、TBS のテレビドラマ「さくらの唄」にレギュラー出演。
桃井かおりに惚れている男役で、みとれてしまって自転車で電柱にぶつかったり川に落ちたりした。
「日本ではそういうのあんまりないんだけど、僕は好きなのね。
無機的な役っていうか。
『さぞ痛いだろうな』というところで、おかしさと憐びんというか同情を買うと。
アメリカ映画ではよくあるギャグなんだけどね。
ドーンとブチ当たっといてパッとシーンが変わるという。
とにかく凄いんだよ、アイツは。
何に当たっても平気なんだよ。
僕はホントにやるに勝るものはないと思うのね。
とくにギャグの場合はね。
高いところから飛び下りるスタントにしてもそうなんだけど、おかしいってことはね、『可哀いそう』とか『痛いだろうな』っていうのはシンパシィになるのね」
(久世光彦、テレビプロデューサー)
【幸福の黄色いハンカチ】 たこ八郎たこ殴りシーン
via www.youtube.com
1977年、37歳のたこ八郎は、わずか数分ながら、山田洋次監督の『幸せの黄色いハンカチ』に出演。
主演の高倉健が山田監督に「網走番外地」シリーズで共演したたこ八郎の起用を進言したことで実現した。
刑務所帰りの中年男が、偶然出会った若い男女と共に妻の元へ向かうというストーリーの中で、たこ八郎は、駐車場で武田鉄也に暴行を加え、それを止めようとする高倉健を殴り、反撃され、頭をボンネットに叩きつけられるチンピラ役だった。
その高倉健に頭を掴まれ車のボンネットに打ち据えられるシーンで本領を発揮。
遠慮する高倉健を促し、自ら頭をぶつけ、1発OK。
この大ヒット作品への出演を機に、映画やテレビの仕事が増えていき、お茶の間の人気者になっていった。
「晩メシのときに2人きりになって、たこさんが子供みたいに名誉だ、名誉だっていいながら、小さい役でも健さんの相手ができることが名誉だ、名誉だっていうのはよく覚えてます。
健さんはああいう人だから、よーいハイってカチンコが鳴って、演出家の山田(洋二)さんも厳しいんだけど、健さんの手はやっぱりボンネットの上で止めるんですよね。
ボンッとやるのが嫌で。
自分で頭を打ちつけるたこさんていうのがね。
自分の体を傷つけてでも監督からOKの大きい表彰状をもらいたいという一途に張り切っている小学生もいたいな純情さっていうのがすごい好きだったです」
(武田鉄也)
1978年、TBSのコメディドラマ『ム~一族』に憎めないチンピラの八郎役で出演し、東北なまりのセリフで茶の間を笑わせた。
1979年、松田優作さん主演のドラマ「探偵物語」に出演。
1981年、友川カズキのアルバム『海静か、魂は病み』に、たこ八郎はコーラス(叫び声)で参加。
主演の高倉健が山田監督に「網走番外地」シリーズで共演したたこ八郎の起用を進言したことで実現した。
刑務所帰りの中年男が、偶然出会った若い男女と共に妻の元へ向かうというストーリーの中で、たこ八郎は、駐車場で武田鉄也に暴行を加え、それを止めようとする高倉健を殴り、反撃され、頭をボンネットに叩きつけられるチンピラ役だった。
その高倉健に頭を掴まれ車のボンネットに打ち据えられるシーンで本領を発揮。
遠慮する高倉健を促し、自ら頭をぶつけ、1発OK。
この大ヒット作品への出演を機に、映画やテレビの仕事が増えていき、お茶の間の人気者になっていった。
「晩メシのときに2人きりになって、たこさんが子供みたいに名誉だ、名誉だっていいながら、小さい役でも健さんの相手ができることが名誉だ、名誉だっていうのはよく覚えてます。
健さんはああいう人だから、よーいハイってカチンコが鳴って、演出家の山田(洋二)さんも厳しいんだけど、健さんの手はやっぱりボンネットの上で止めるんですよね。
ボンッとやるのが嫌で。
自分で頭を打ちつけるたこさんていうのがね。
自分の体を傷つけてでも監督からOKの大きい表彰状をもらいたいという一途に張り切っている小学生もいたいな純情さっていうのがすごい好きだったです」
(武田鉄也)
1978年、TBSのコメディドラマ『ム~一族』に憎めないチンピラの八郎役で出演し、東北なまりのセリフで茶の間を笑わせた。
1979年、松田優作さん主演のドラマ「探偵物語」に出演。
1981年、友川カズキのアルバム『海静か、魂は病み』に、たこ八郎はコーラス(叫び声)で参加。
たこ八郎
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1983年4月、「笑っていいとも!」にレギュラー出演開始。
毎晩、居酒屋で過ごし、酩酊状態で収録現場に現れ、一見、お昼のテレビ向きではない風貌から一言、
「たこでーす」
地なのか計算なのか不明のボケ。
「納豆はなぜ糸を引くのか。
それはピタゴラスなのです」
「やはり自分は罪を憎んで罪を憎まず」
回らない呂律で意味不明だが、どこか哲学的な発言。
予測不能な笑いを生み出した。
テリー伊藤発案の、『バカなたこ八郎に東大生の血を輸血したら知能指数が上がるのか?』という今なら間違いなく問題になる企画も2つ返事で引き受け、『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』などでお馴染みの「金粉マラソン」を最初にやったのもたこ八郎。
金粉を塗ると皮膚呼吸できないので途中、呼吸困難となりリタイア。
どんなひどい目にあっても素朴なコメントとリアクション。
ここまでおバカで愛らしくてわかりやすい人はいなかった。
毎晩、居酒屋で過ごし、酩酊状態で収録現場に現れ、一見、お昼のテレビ向きではない風貌から一言、
「たこでーす」
地なのか計算なのか不明のボケ。
「納豆はなぜ糸を引くのか。
それはピタゴラスなのです」
「やはり自分は罪を憎んで罪を憎まず」
回らない呂律で意味不明だが、どこか哲学的な発言。
予測不能な笑いを生み出した。
テリー伊藤発案の、『バカなたこ八郎に東大生の血を輸血したら知能指数が上がるのか?』という今なら間違いなく問題になる企画も2つ返事で引き受け、『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』などでお馴染みの「金粉マラソン」を最初にやったのもたこ八郎。
金粉を塗ると皮膚呼吸できないので途中、呼吸困難となりリタイア。
どんなひどい目にあっても素朴なコメントとリアクション。
ここまでおバカで愛らしくてわかりやすい人はいなかった。
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反面、ライターに
「たこさんの話、書きたいんだけど」
といわれると
「任せるよ。
カッコよく書いちゃダメよ。
キレイに書いちゃ」
と答えた。
彼女ができて結婚を迫られると
「うん、うん」
とうなずきながら、少し後になって
「やっぱりやめとうこう」
とやんわり拒んだ。
手も握ったことのない女子大生との交際が週刊誌に掲載されたときは
「俺はいいよ。
何を書かれようとね。
でも彼女は普通の女の子なんだ。
ただのファンだよ。
変に騒がれて迷惑だろうな」
と心を痛めた。
一見、飄々とした物腰と周囲への優しさと気づかいは、決してテクニックではなく地獄を体験した者しか得ることのできないものだった。
周囲は、大きな哀しみを背負って生きる者が持つ寛容さを尊敬し愛した。
「たこさんの話、書きたいんだけど」
といわれると
「任せるよ。
カッコよく書いちゃダメよ。
キレイに書いちゃ」
と答えた。
彼女ができて結婚を迫られると
「うん、うん」
とうなずきながら、少し後になって
「やっぱりやめとうこう」
とやんわり拒んだ。
手も握ったことのない女子大生との交際が週刊誌に掲載されたときは
「俺はいいよ。
何を書かれようとね。
でも彼女は普通の女の子なんだ。
ただのファンだよ。
変に騒がれて迷惑だろうな」
と心を痛めた。
一見、飄々とした物腰と周囲への優しさと気づかいは、決してテクニックではなく地獄を体験した者しか得ることのできないものだった。
周囲は、大きな哀しみを背負って生きる者が持つ寛容さを尊敬し愛した。
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1983年
『たこでーす。オレが主役でいいのかなぁー』が発刊。
1984年6月4日、
NHK銀河テレビ小説でたこ八郎の半生を描いた『迷惑かけてありがとう』が放映開始。
たこ八郎役は、柄本 明。
その他、サントリー、金鳥マット、エースコック、宝酒造、オートバックスとCMにも出演。
でも引っ張りだこ。
毎日、テレビ、ラジオ、出演する最強の芸人だった。
気が向けば、横浜市都築区にあるファイティング原田ジムにいきサンドバッグを相手に汗を流し、後楽園ホールに顔パスで入り、同門対決は当然のように行われ、バッティングで血を流しても、それまでの採点次第で勝者となるようになったボクシングの試合を観戦することもあった。
「あれはあれで幸せなんだろうな
あいつの人生はあいつのボクシングそのものだ」
(ファイティング原田)
『たこでーす。オレが主役でいいのかなぁー』が発刊。
1984年6月4日、
NHK銀河テレビ小説でたこ八郎の半生を描いた『迷惑かけてありがとう』が放映開始。
たこ八郎役は、柄本 明。
その他、サントリー、金鳥マット、エースコック、宝酒造、オートバックスとCMにも出演。
でも引っ張りだこ。
毎日、テレビ、ラジオ、出演する最強の芸人だった。
気が向けば、横浜市都築区にあるファイティング原田ジムにいきサンドバッグを相手に汗を流し、後楽園ホールに顔パスで入り、同門対決は当然のように行われ、バッティングで血を流しても、それまでの採点次第で勝者となるようになったボクシングの試合を観戦することもあった。
「あれはあれで幸せなんだろうな
あいつの人生はあいつのボクシングそのものだ」
(ファイティング原田)
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1985年7月24日、朝までゴールデン街で飲み明かし
「久しぶりに真鶴の海に行ってきます」
といって神奈川県足柄下郡真鶴町の岩海水浴場に出かけ、車の中でも飲み続け、海水浴場に着いても海の家で飲んでいた。
そして10時20分頃、青春時代に何度も訪れた海に入り100mほど泳いで海岸まで戻ろうとして、残り20mほどの地点で心臓マヒを起こした。
まだ44歳、人気絶頂の中、突然の死んでしまった。
事故から1時間半後、たこ八郎の死はレギュラー出演していた「笑っていいとも!」の生放送中にタモリによって伝えられ、日本中に衝撃が走った。
新聞は
「たこ、海で溺死」
の見出し。
葬儀では、赤塚不二夫は、泣きながら
「この野郎、逝きやがったな」
とたこ八郎の額を叩いて最後のお別れ。
由利 徹は
「あの、たこ野郎!
俺より先に逝きやがって、なんてことするんだ」
と嗚咽。
式中、涙を流していたタモリは、
「たこが海で死んだ。何にも悲しいことはない」
とコメント。
最後は
「みなさん、お手を拝借・・・いよ~っ」
と由利徹が先導、立川談志、ビートたけしをはじめ、多くの著名人と多くのファンが
「 パパパン パパパン パパパンパン、パパパン パパパン パパパンパン、パパパン パパパン パパパンパン」
と3本締めで出棺。
たこ八郎は、物事が丸く収まったときや、宴会やめでたい席の終了時に全員で行う3本締めが大好きだった。
「久しぶりに真鶴の海に行ってきます」
といって神奈川県足柄下郡真鶴町の岩海水浴場に出かけ、車の中でも飲み続け、海水浴場に着いても海の家で飲んでいた。
そして10時20分頃、青春時代に何度も訪れた海に入り100mほど泳いで海岸まで戻ろうとして、残り20mほどの地点で心臓マヒを起こした。
まだ44歳、人気絶頂の中、突然の死んでしまった。
事故から1時間半後、たこ八郎の死はレギュラー出演していた「笑っていいとも!」の生放送中にタモリによって伝えられ、日本中に衝撃が走った。
新聞は
「たこ、海で溺死」
の見出し。
葬儀では、赤塚不二夫は、泣きながら
「この野郎、逝きやがったな」
とたこ八郎の額を叩いて最後のお別れ。
由利 徹は
「あの、たこ野郎!
俺より先に逝きやがって、なんてことするんだ」
と嗚咽。
式中、涙を流していたタモリは、
「たこが海で死んだ。何にも悲しいことはない」
とコメント。
最後は
「みなさん、お手を拝借・・・いよ~っ」
と由利徹が先導、立川談志、ビートたけしをはじめ、多くの著名人と多くのファンが
「 パパパン パパパン パパパンパン、パパパン パパパン パパパンパン、パパパン パパパン パパパンパン」
と3本締めで出棺。
たこ八郎は、物事が丸く収まったときや、宴会やめでたい席の終了時に全員で行う3本締めが大好きだった。