続く登板は、4月15日ヤクルト戦。チームは開幕9連勝と絶好調で、10連勝のかかった大事な試合でした。試合は、味方打線が2回に3点を先制したのみで、追加点の取れない投手戦となります。ところが武田は、この試合も零封し、2試合連続で完封勝利を収めました。チームは、最終的に開幕11連勝を達成しています。
1999年6月19日 広島東洋カープ
その後は勝ち負けを繰り返しつつも、先発ローテーションは守り続けます。広島戦は6月5日に負け投手となりますが、6月19日にリベンジ再戦。この日は味方打線が爆発して6回まで10得点、武田も8回2失点に抑え完投勝利を収めます。6月に入って調子の落ちてきたチームを鼓舞するような、良い流れの勝利となりました。
1999年7月21日 読売ジャイアンツ
7月21日巨人戦。前回の7月7日の対戦では勝敗がつかず、この日は2試合目の登板です。先発して7回途中2失点で降板。5対2の3点リードで、先発の役割を果たします。その後、巨人に追い詰められますが、最後は6対4で逃げ切り勝ち。ついに、巨人から初勝利を収めました。
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2000年4月30日 阪神タイガース
結局、移籍初年は、阪神には勝てず、0勝2敗に終わります。そして移籍2年目の2000年、その日はすぐにやってきました。4月30日の阪神戦。先発で登板すると、チームが4回に一挙6得点を挙げます。武田も7回途中1失点に抑える好投。ついに、自球団を除くすべてのセ・リーグ敵チームから勝利を収めました。
しかし、その後は不調で、2001年オフに自由契約選手となります。
しかし、その後は不調で、2001年オフに自由契約選手となります。
2002年5月7日 中日ドラゴンズ
自由契約選手として公示されると、獲得に名乗りを上げたのは巨人。自身4球団目となる、読売ジャイアンツへの移籍が決定します。記録については、武田自身も意識しており、入団会見では、"中日に勝てば全球団勝利" と明言していました。
開幕二軍スタートだった武田は、5月7日に一軍登録。即、中日戦で先発登板します。味方打線が5回まで6得点を挙げ、自身は6回2失点に抑える好投。リリーフ陣が中日打線を抑え、ついに最後の1球団、中日に勝利しました。4球団を渡り歩き、足掛け14年で全球団勝利の達成です。
2002年は先発登板はわずか4試合(実質3試合)ながら、2勝を挙げました。しかし、古傷の悪化で、その年で引退。現在は、NHKの野球解説者として長年活躍しており、日本のプロ野球だけでなく、MLBの解説者としても有名です。
開幕二軍スタートだった武田は、5月7日に一軍登録。即、中日戦で先発登板します。味方打線が5回まで6得点を挙げ、自身は6回2失点に抑える好投。リリーフ陣が中日打線を抑え、ついに最後の1球団、中日に勝利しました。4球団を渡り歩き、足掛け14年で全球団勝利の達成です。
2002年は先発登板はわずか4試合(実質3試合)ながら、2勝を挙げました。しかし、古傷の悪化で、その年で引退。現在は、NHKの野球解説者として長年活躍しており、日本のプロ野球だけでなく、MLBの解説者としても有名です。
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