数多くのチームへと移籍
幾度の手術により1997年シーズンでの全試合欠場を経て公式戦に復帰するもゴール数の減少は隠せず、小倉を語る際にはしばしば「悲劇」の形容詞が付けられるようになった。2000年のジェフユナイテッド市原を皮切りに、東京ヴェルディ1969、コンサドーレ札幌、ヴァンフォーレ甲府と4年連続での移籍となった。
現役最後のチーム ヴァンフォーレ甲府
2003年に入団し、小倉にとって初のJリーグ2部(J2)挑戦となった甲府では移籍後から中心選手として活躍し、かつての弱小クラブが成績・人気両面で上昇カーブを描くのに貢献した。
エピソード
木訥とした風貌からか、時として「小生意気」との印象を与えることもあるが、実際の彼は非常に礼儀正しく、腰も低い。それは現役時代の試合中でもそうであった。名古屋グランパスエイト時代、ストイコビッチに試合中にコーチングを受ける時の彼は、常に直立不動の姿勢で話を聞いている。彼とは仲がよく、審判とのトラブルを起こしたストイコビッチをなだめることもあった。
その圧倒的なリーダーシップと日本人としては規格外のプレイスタイルから、若き頃の中田英寿をして「尊敬するサッカー選手は、小倉さん」と言わしめた。現在でも大学生と一緒に中田とサッカーを楽しんでいる。
2006年に現役を引退。
その後は、サッカー解説の仕事やサッカー教室を行う等してサッカー界に関わっていました。
そして、現在はプロ選手のキャリアをスタートさせた名古屋グランパスでGM兼監督を務めています。
その後は、サッカー解説の仕事やサッカー教室を行う等してサッカー界に関わっていました。
そして、現在はプロ選手のキャリアをスタートさせた名古屋グランパスでGM兼監督を務めています。