ナゴヤドームで右方向に本塁打を放つ川上投手
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海外挑戦
2008年に開かれた北京オリンピック。野球の代表チームを率いたのは恩師・星野監督でした。「星野ジャパン」の代表入りした川上投手は中継ぎとして起用されます。チームは準決勝まで順調に勝ち進むのですが、GG佐藤選手の「あの落球」などが影響し、結果は4位。川上投手も3位決定戦で敗戦投手になっています。
オリンピックでの「後遺症」が心配された川上投手でしたが、帰国後は好調な投球を見せ、最優秀防御率のタイトルも狙える成績でしたが、規定投球回数に達する事はできませんでした。そしてこの年のシーズンオフに海外FA権を行使することを発表。アトランタ・ブレーブスと3年契約を結びます。
大リーグ入りしてからの川上投手は厳しい戦いが続きます。1年目は先発で好投しても打線の援護が得られないことが多く、更にシーズンを通じて右肩の違和感と戦う事になります。中継ぎに配置転換されて以降安定感を見せますが、7勝12敗。
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故障からの復帰を目指した2年目は開幕から先発ローテーション入りするものの、球団史上ワーストとなる開幕9連敗。シーズン通じての成績は1勝10敗。シーズン後半にはAA落ちも経験し、更に翌2011年はメジャー昇格する事なくシーズンを終えるのです。
日本球界に復帰
3年間の苦しい海外生活の後、川上投手は2012年に中日と再契約します。背番号は親しみのある「11番」になる事が決定。(それに伴い前年まで11番をつけていた岡田投手は21番に変更)この年の開幕第二戦に登板し、勝利投手になるのですが、直後に故障を発症し戦列を離れ、シーズン成績は3勝1敗。2013年も右肩痛のため、初登板は8月迄ずれ込みます。
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結局この年も1勝どまりに終わった川上投手に1時は戦力外が言い渡され(同時にコーチ打診も)るのですが、その後方針転換され、新たに2年契約が結ばれます。(この方針転換には落合GMと谷繁監督の意向があったと言われています)
2014セ・リーグ開幕投手
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引き続き中日のユニフォームを着ることになった川上投手は、なんと2014年シーズンの開幕投手に「サプライズ選出」されます。(開幕投手を7度も務めたのは、中日の球団史上最多記録)
ですがやはりこの年も故障に苦しんだ川上投手は、一軍では、6試合の登板で1勝2敗。二軍でも、10試合の登板で0勝5敗という結果に終わりますが、中日は年俸1000万増(推定)という条件で契約を更改します。不本意な成績が続いている故障持ちのベテラン投手に対してこの様な契約は異例とも言えますが、それだけ川上投手が特別な存在だったという事でしょう。
2015年右肩の腱板を痛めた川上投手は、9月末に腱板の再建手術を受けます。この年一・二軍とも実戦登板の機会がなかった川上投手は、中日からの退団を表明。長年つけていた「背番号11」はドラフト1位で獲得した小笠原投手に引き継がれる事になりました。
ですがやはりこの年も故障に苦しんだ川上投手は、一軍では、6試合の登板で1勝2敗。二軍でも、10試合の登板で0勝5敗という結果に終わりますが、中日は年俸1000万増(推定)という条件で契約を更改します。不本意な成績が続いている故障持ちのベテラン投手に対してこの様な契約は異例とも言えますが、それだけ川上投手が特別な存在だったという事でしょう。
2015年右肩の腱板を痛めた川上投手は、9月末に腱板の再建手術を受けます。この年一・二軍とも実戦登板の機会がなかった川上投手は、中日からの退団を表明。長年つけていた「背番号11」はドラフト1位で獲得した小笠原投手に引き継がれる事になりました。
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大学時代からのライバルである高橋由伸選手が巨人の監督就任と同時に現役引退を表明しましたが、川上投手は中日からの「退団」は表明したものの、現役引退はせず、手術後の回復を待って球界復帰を目指しています。
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最多勝を2度獲得した魂のエース・川上投手はまだ燃え尽きていないのです。