キング・オブ・ロックンロールと称されるエルヴィス・プレスリーの”虚”と”実”を追う!!
2017年4月17日 更新

キング・オブ・ロックンロールと称されるエルヴィス・プレスリーの”虚”と”実”を追う!!

エルヴィス・プレスリーは、1950年代に「ロックンロールの三神」と称される、チャック・ベリーやファッツ・ドミノ、リトル・リチャードらに少し遅れて、彗星の如くロックンロール界に現れ、ロックンロールの普及に大きく貢献した、いわゆる創始者の一人であり、後進のアーティストに多大な影響を与えた。その功績からキング・オブ・ロックンロールと称される。彼の足跡と音楽を辿ってみることにしよう。

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ありし日のエルヴィス・プレスリー

ありし日のエルヴィス・プレスリー

エルヴィス・アーロン・プレスリー (Elvis Aron Presley, 1935年1月8日 - 1977年8月16日)は、アメリカのミュージシャンであり、映画俳優でもあった。

これは「監獄ロック」の一場面です。
ロックンロール(ロック)の歴史を語るなら、本当は300年も遡って遠くアフリカ西海岸からアメリカ南部に強制的につれてこられた黒人奴隷が日々の労働の苦しさを忘れる為「ブルース」とか「賛美歌(ゴスペル)」を発明した事から始めなければならないだろうが、私が以前書いたものに記述しているので、ここではその辺は割愛することにする。興味のある方は下記の記事をご参考にして頂きたい。

”キング・オブ・ロックンロール”ことエルヴィス・プレスリーとは??

さて、ロックン・ロールはそんな黒人奴隷たちが創造した「ブルース」や「賛美歌」を元にして、チャック・ベリーやリトル・リチャード、ファッツ・ドミノといった3人の神様たちが、色々工夫(テンポを速くしたり、叫んだり、楽器を変えたり・・・)し、進化形として誕生させた<新しい娯楽>だったのだが、それが黒人だけでなく、少しずつ、そして着実に白人にも受け入れられるようになっていった。そして、そのうち白人の中でも音楽を聴くことだけに飽き足らず、色々な楽器(ピアノ、ギターなど)を持って黒人の真似をする若者が現れ出したのである。しかも中には黒人に負けず劣らず、優れた<ブルース・フィーリング>を備えた若者もいた。そのような中、エルビス・プレスリーは最初に登場した白人のロックン・ローラーだったのである。

エルヴィス・プレスリーの生い立ち

エルヴィス・プレスリー

エルヴィス・プレスリー

1935年1月8日、ミシシッピ州テューペロにて、父は農夫、母はミシン工場勤めという貧しい家庭に生れる(双子だったが兄は死産になった)。幼い頃からカントリー等に親しみ、5歳から教会のコーラスに参加。熱心なキリスト教プロテスタントの信者であり、9歳の時に洗礼を受けていた。
11歳で地元ののど自慢大会で2位となり、父からギターを買ってもらった。やがてテネシー州メンフィスに移り、高校卒業後、トラック・ドライバーとなった。18歳の時、母の誕生プレゼントとして『マイ・ハピネス』を自前でEPにしたことからサン・レコードの目に止まり、55年にプロ・デビュー。すぐさまメンフィスで火が付きRCAビクターに移籍契約。瞬く間にティーン・エイジのアイドル的存在となって熱狂的支持を受けた(『ハートブレイク・ホテル』は週に12万枚もの売れ行きだったという)。56年にパラマウントに招かれ、同年FOXから「やさしく愛して」で映画デビュー。興行的に大ヒットして以降、多くの作品に主演。1950年代に、アメリカやイギリスをはじめとする多くの若者をロックンロールによって熱狂させ、それは20世紀の音楽の中でも最大級のムーブメントを引き起こした。また、極貧の幼少時代から一気にスーパースターにまで上り詰めたことから、アメリカンドリームの象徴であるとされる。50年代に、アメリカやイギリスをはじめとする多くの若者をロックンロールによって熱狂させ、それは20世紀の音楽の中でも最大級のムーブメントを引き起こした。また、極貧の幼少時代から一気にスーパースターにまで上り詰めたことから、アメリカンドリームの象徴であるとされる。58年、当時は徴兵制のため、召集され西ドイツに2年間駐留米軍の一員として勤務した。ここで空軍大佐の娘であるプリシラと知り合い67年に結婚した。俳優として演技が出来るわけでもなく、型にはまった作品群は次第に飽きられ、ステージからも遠のいていたために再起不能の噂が流れたが、69年ラスベガスのショーでこれを払拭。70年の同ショーを記録した「エルビス オン ステージ」は世界的ヒットとなって“キング・オブ・ロックンロール”は完全復帰を果たした。しかしその3年後、長年の薬物摂取が原因で心臓発作(死因に関しては諸説があり、下記にその一端を紹介スrうことにする)を起こし、1977年8月16日、メンフィスの自宅で死亡しているところを発見された。プリシラとは73年に離婚したが、離婚後もプレスリーとプリシラは友人関係にあり、以前よりも密に連絡を取り合うようになったという。プレスリーがツアーでロサンゼルスにいるときは、プリシラの家を訪れたり、なにか事あるごとにプリシラを呼び寄せたりして精神的にプリシラを頼りにしていたようだった。二人は、二人の一粒種である子供のリサ・マリーがまだ幼かったこともあって、二人が離婚したことでリサが不幸にならないようにと願っていたのだろうか、リサとプレスリーは頻繁に会っていたようだ。
身長は183cm。髪は茶褐色であるが黒く染めていた。飲酒はしない。趣味はバッジ収集。愛車は59年型キャデラック。好きな食べ物はピーナッツバター・サンド、コーヒーや炭酸飲料も好む。「ピーナッツバターとバナナのサンドイッチ」が大好きで、毎日のように食べていた。ただし、このサンドイッチは食べる前に多量のバターを溶かしたフライパンで揚げ焼きにしたもので、当然ながら高カロリーなため、プレスリーが30代以降体調を崩し、肥満化していった一因になったのではないかという指摘もある。
EP(ドーナツ)版のレコード

EP(ドーナツ)版のレコード

回転数 : 45r.p.m.
直径 : 17cm(7インチ)
45回転シングル盤と同じ大きさ、同じ回転数であるが、片面に2曲 - 3曲程度ずつ収録したものをこう呼ぶ。穴の大きさは大小両方が存在する(アメリカは大、日本では小がほとんど)。アメリカでは(45回転専用プレーヤー向けで)ほぼ1959年まで 。流行歌や映画のサントラ盤、新曲+発表済みの楽曲を収録されたものが多く、曲数の割りに比較的安価だったことから、LPを購入する予算がない、または目的の曲+αが聴ければ満足とする学生などの若年層にアメリカ以外で1960 - 1970年代初頭にかけ好評だった。イギリスでは『マジカル・ミステリー・ツアー』が2枚組EP(片面1-2曲)として、アルバムに閉じたものが発売されていた。イギリスではシングルと同じようにセンター(シングル盤の項参照)が設けられることが多かった。日本では時に45回転シングルをEPと呼称することがあるので、厳密に区別して4曲入りEPとも呼ばれるが、EP盤は4曲とは限らない。あくまでシングルよりも収録曲数が増えた形式である[6]。概して音が小さく音質はあまり良くない。また、33回転のコンパクト盤は別種とされる。

Elvis Presley Heatrbreak Hotel Live (1956`)

"Retro" 1960's Movie Trailer for Elvis Presley film "Wild in the Country" (1961)

邦題が”嵐の季節”、アウトサイダー的な青年(エルヴィス・プレスリー)が、年上の精神分析女医と知り合い、彼女の助力を得て小説家としての道を歩み始めるという物語。

では、いよいよエルヴィスの楽曲ベスト10を以下に発表しよう!!

エルヴィス・プレスリーがもしも現在、生きていたとしたら、今年で82歳になったはずである。エルヴィスが2017年にコンサートを行っているところは想像もつかないが、何か月か年上のレナード・コーエンは今でもアルバムを出しているし、チャック・ベリーに至っては90歳でやっとこの前に大往生した。
したがってエルヴィスも、相応のダイエットをして健康を回復したとすれば、現在もステージでお腰を振っていてもおかしくはないわけである。しかし、神様は非常なもので、彼の人生はそんな風には行かなかった。
それでも彼は今でもキング・オブ・ロックンロールであり、米国のローリングストーン誌は、エルヴィスの楽曲リクエストを読者投票で募ったという。以下がその結果である。

第10位 「ミステリー・トレイン」

ELVIS PRESLEY//Mystery Train

プレスリーが契約をRCAに4万ドルで売却する数か月前に、エルヴィスはサンレコードのスタジオに戻って、この1953年のジュニア・パーカーの曲のカヴァーを録音した。ギターにスコッティ・ムーア、ベースにビル・ブラック、ドラムにジョニー・バーネロを配して、プレスリーはブルース風な原曲をアップテンポにアレンジしている。この新バージョンはビルボード・カントリーチャートを11位まで上昇したのだが、その数か月後にRCAが「ハートブレイク・ホテル」をリリースすると、それ以前にプレスリーがリリースしたものすべてがすっかり霞んでしまったのだった。それでも、「ミステリー・トレイン」は今でも最も愛されているエルヴィスの曲の1つである。

第 9位 「雨のケンタッキー」

Kentucky Rain - Elvis Presley

エルヴィスは、哀愁の曲「雨のケンタッキー」をシングルとして1970年1月にリリース、70年代の第1歩を力強く踏み出した。この曲はビルボード・ホット100で16位を記録し、100万枚以上を売り上げたのだが、ライヴショーではたった数週間しか歌われなかった幻の名曲と言って良い。

第 8位 「アメリカの祈り」

American Trilogy (High Quality)

エルヴィスが「アメリカの祈り」を歌い始めた1972年、南北戦争はすでに100年以上も前に終わっていたが、その傷跡はまだアメリカ中に深く刻まれていた。この曲はナッシュヴィルのミュージシャンであったミッキー・ニューベリーの作品で、まるで南北を統一するかのように、「ディキシー」「リパブリック讃歌」「私の試練」を合体させてスケールの大きな愛国的組曲に仕立て上げたものである。彼がどうにかこの仕事を4分半にまとめたとき、できあがった楽曲は、晩年5年間のプレスリーのコンサートのハイライト曲となったのである。アメリカ人はこの曲を聴くと胸がジ~ンと熱くなるようです。

第 7位 「ハートブレイク・ホテル」

ハートブレイク・ホテル/エルヴィス・プレスリー

全国規模のRCAビクターに移籍後、初めて出した曲で、多くのアメリカ人が最初にエルヴィス・プレスリーの名前を覚えたのは、1956年初頭に「ハートブレイク・ホテル」がラジオから流れてきたときのことだった。それ以前のプレスリーの活躍はローカルなものにすぎなかったが、新しく契約したレコードレーベル、RCAのテコ入れもあり、彼はこのホット100で7週連続1位を獲得することになった。これを契機にエルヴィスはテレビにも出演するようになり、全国的なエルヴィス・ブームが巻き起こることになった。
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