ナット・キング・コール(Nat King Cole)って誰??
ナット・キング・コール(Nat King Cole)の生い立ち
モンゴメリー・バス・ボイコット事件(Montgomery Bus Boycott)とは何ぞや??
事件の発端となったローザ・パークス(黒人女性)婦人が逮捕時に乗っていたバス
これをきっかけに、黒人たちは若きマルチン・ルーサー・キング牧師を中心に人種差別撤廃のために立ち上がった。 彼らは、ラッシュアワー時でも決してバスに乗らず、客がいなくて空っぽのバスを見ると笑い飛ばした。 これらのボイコットにより、バス会社の売上は悪くなる一方だった。1956年11月13日、連邦最高裁判所は、地方裁判所の判決を支持する形で、モンゴメリーの人種隔離政策に対して違憲判決を下した。そして、運動は1956年12月20日に公式に終了した。黒人たちは勝った。 彼らは、非暴力により、勝利を得ることができたのである。
一難去って、また一難
地元を遥かに離れた西海岸で運営資金を失ってしまった劇団はその場で解散せざるを得なくなったが、彼自身ははやむなく仲間を集めて、ジャズ・カルテットを編成しナイトクラブで演奏することになったのだ。
ところが、せっかくつかんだクラブでの演奏当日、ドラムを演奏するはずのメンバーが本番当日になって現れず、しかたなく彼らはドラムレスのトリオで演奏することになるはめになった。一般的にドラムがないトリオは静かなバーで演奏するのが基本で、小うるさいナイトクラブではドラムが刻むリズムがないと騒ぎ声にかき消されてしまいがちであった。彼のバンドは、またもや危機に見舞われたのだ。
しかし、その危機も彼は切り抜けます。それは彼のピアノがシカゴで鍛えられてたからだった。シカゴはブギ・ウギ・ピアノの本場であり、そこでピアノを学んだ彼は、ブギ・ウギ・ピアノ独特の奏法であるストライド・ピアノをマスターしていたため、片手で力強いリズムをたたき出すと同時に美しい旋律を奏でることができたのだ。それならナイトクラブの雑踏の中でも十分に音楽は観客に届き、かえってその力強さと美しさが観客をひきつけることになった。こうして、彼はジャズ・ピアニストとしての地位を確立して行くことになったのだ。このシンプルな3人編成の「ナット・キング・コール・トリオ」がトリオバンド流行の火付け役となった。
この年、彼のトリオはキャピトル・レコードから彼のオリジナル曲「ストレート・アップ・アンド・フライ・ライト」を発表。当時のピアノ・トリオとしては珍しい成功例となりました。
Nat King Cole - Straighten Up & Fly Right(1944)
ハゲワシが小さい動物たちを背中に乗せ、空を飛んで遊ばせようと嘘をつき、飛んでから背中の動物を食べてしまう。これに気がついた猿が、ハゲワシを懲らしめるため、わざと背中に乗って、空中でハゲワシの首を絞める。ハゲワシが、絞めるのをやめたら逃がしてやる、と嘘を言うが、猿は信じない。
人間は正しく生きろという説教話なのだ。
日本でも時々訳の解らない歌(この頃では”PPAP”なんかも・・・(ーー;))が流行りますが、そのたぐいではないかと思います。
運命のいたずらはもう一度!!
ある日、彼のトリオがナイトクラブで「スウィート・ロレイン」という曲を演奏していた時、酔っ払った客の一人が彼に、歌も歌ってくれと半ば脅すように言った。普通の人なら、むかついたかもしれない状況で、ナット”キング”コールという人物はあまりに心優しく、人に反抗的な態度をとることができない人物だったらしい。彼は、要求されたとおりにピアノを弾きながら歌いだしたそうだ。すると観客は大喜びし、その時の観客の反応に気を良くした彼は、以降自ら歌を歌うようになったのことだ。
この逸話は本当かどうか疑わしくもあるのですが、彼の性格を考えると十分ありえることだそうです。
Nat King Cole - Sweet Lorraine(1940)
1928年ルディ・バレ率いるコネチカット・ヤンキースのヒット曲。コネチカット・ヤンキースのピアニスト、クリフ・バーウェルが作曲した。1937年にナット・キング・コールが取り上げリバイバル・ヒットさせた。
結婚を前後して音楽の軸足をジャズからポップスにシフトする。
ナット・キング・コールと夫人マリア・コールの出会いにも面白い逸話がある。彼女は元々デューク・エリントン楽団の専属歌手で、マリア・エリントンの名前で歌っていた。エリントンの伝記を読むと、ある時から毎晩のようにナット・キング・コールがエリントン楽団の演奏を聴きに来るようになったので、いつから俺のバンドが好きになったのかと喜んでいたら、ある日突然専属歌手のマリー・エリントンがいなくなり、その日からナットも姿をみせなくなったという。「ナットの関心は俺のバンドではなく彼女だったのかと、なんだかおかしくもあり、ほほえましく思った」とエリントンは回想している。二人は、5子を儲けるようになるが、1950年代以降はジャズからポピュラー界に軸足を移し、テレビにも多く出演し広く大衆的な人気を得るようになり、ヒット曲を量産するようになった。
なぜ、軸足を移したのだろうか?
一つは経済的理由が挙げられる。独身時はジャズ一本で食えたかもしれないが、結婚し、子供も授かれば、家族を養わなくてはならないからだ。今は共働きが主流かもしれないが、当時の米国でも「男は仕事、女は家庭」という観念が主流だった。当然、子供までできれば、マリアが家庭を受け持つことになったと推測できる。
もう一つの理由としては、彼の”声”をそのままジャズ界だけに留まらせたくないとする、社会的な欲求があったのではないであろうか
では、そろそろヒット曲の紹介だ!!
Nat king cole, Nature Boy(1948)
NAT KING COLE - MONA LISA(1950)
あのレオナルド・ダヴィンチの名画「モナリザ」のモデルになった女性に対する想いをストレートに歌っているが、ナット・キング・コールの甘い歌声に魅せられる。
NAT KING COLE Too Young(1951)
歌詞の中では、「人を愛する気持ちに遅い早いはないんだ」という強いメッセージが歌い込まれている。
ナット・キング・コール(Nat King Cole、1919年3月17日 - 1965年2月15日)は、アメリカのジャズ・ピアニスト、歌手。
本名:ナサニエル・アダムズ・コールズ(Nathaniel Adams Coles)。「キング」は愛称。