チャンスに強い打者として24年間プロで活躍した大島康徳
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大島康徳の獲得タイトルや主な表彰と記録
本塁打王:1回 (1983年)
最多安打(当時連盟表彰なし):1回 (1979年) ※1994年より表彰
ジュニアオールスターゲームMVP:1回(1970年)
月間MVP:1回(1984年6月)
1イニング2本塁打[9]:2回 ※史上7人目(複数回達成は史上初)
1972年8月2日、対ヤクルトアトムズ18回戦(明治神宮野球場)、2回表先頭で渡辺孝博から左越ソロ、2死満塁で井原慎一朗から中越満塁本塁打 ※史上7度目
1977年8月9日、対読売ジャイアンツ15回戦(ナゴヤ球場)、6回裏先頭でクライド・ライトから右中間ソロ、2死満塁で小俣進から左中間へ満塁本塁打 ※史上8度目
5試合連続本塁打 (1979年10月8日 - 10月17日)
シーズン最多代打本塁打:7 (1976年)
最年長満塁本塁打:43歳6ヶ月 (1994年5月4日)
オールスターゲーム出場:4回 (1977年、1979年、1983年、1984年)
最多安打(当時連盟表彰なし):1回 (1979年) ※1994年より表彰
ジュニアオールスターゲームMVP:1回(1970年)
月間MVP:1回(1984年6月)
1イニング2本塁打[9]:2回 ※史上7人目(複数回達成は史上初)
1972年8月2日、対ヤクルトアトムズ18回戦(明治神宮野球場)、2回表先頭で渡辺孝博から左越ソロ、2死満塁で井原慎一朗から中越満塁本塁打 ※史上7度目
1977年8月9日、対読売ジャイアンツ15回戦(ナゴヤ球場)、6回裏先頭でクライド・ライトから右中間ソロ、2死満塁で小俣進から左中間へ満塁本塁打 ※史上8度目
5試合連続本塁打 (1979年10月8日 - 10月17日)
シーズン最多代打本塁打:7 (1976年)
最年長満塁本塁打:43歳6ヶ月 (1994年5月4日)
オールスターゲーム出場:4回 (1977年、1979年、1983年、1984年)
熱血野球人。大島康徳のプレースタイルは?
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代打でのシーズン最多本塁打記録を持つなど、切り札としてチャンスに強い打撃が持ち味の選手である。
叩きつけるバッティングではなく、すくいあげるバッティングでの本塁打が印象的で、サブとしても、キーマンとしても活躍したスター選手で、最年長での本塁打を記録している。
瞬間湯沸かし器として、知られるほど情熱的で、野球以外に対しても、熱血な人柄でしられています。
叩きつけるバッティングではなく、すくいあげるバッティングでの本塁打が印象的で、サブとしても、キーマンとしても活躍したスター選手で、最年長での本塁打を記録している。
瞬間湯沸かし器として、知られるほど情熱的で、野球以外に対しても、熱血な人柄でしられています。
大島康徳のプロで活躍するまでの軌跡
稲尾様の故郷、大分県の中津市に生まれた大島は、中学時代はバレーボールをしており、高校入学まで野球をしたことがなかった。
運動能力に長けており、中津工業の監督に惚れられ、グローブとスパイクのプレゼントをもらい、工業高校に進学した。野球部ではエースで4番として活躍し、1968年の中日ドラゴンズの入団テストで見事合格。
その年のドラフトで3位指名され入団となった。
運動能力に長けており、中津工業の監督に惚れられ、グローブとスパイクのプレゼントをもらい、工業高校に進学した。野球部ではエースで4番として活躍し、1968年の中日ドラゴンズの入団テストで見事合格。
その年のドラフトで3位指名され入団となった。
投手として、入団したがわずか1球で、投手失格の烙印を押され、当時の監督が打撃の素質を見抜き打者へと変更させたのだった。
大島康徳のプロの野球人になってからの活躍
入団からしばらくは二軍暮らしだったが入団3年目の1971年に、助っ人外国人の故障で一軍初出場、直後にジュニアオールスターゲームでウエスタン・リーグの主砲としてMVP。翌年外野手のレギュラーとなるが、まだ荒削りで完全なレギュラー定着には至らなかった。8年目の1976年、代打起用で勝負強さを発揮しシーズン代打本塁打7本の日本記録を樹立。
翌年も調子を持続させ、三塁手のレギュラーとして打率.333、27本塁打。1979年には30本の大台を越える36本塁打。1983年に再び36本塁打を放ち本塁打王に輝く。その間の優勝年である1974年はセンターの準レギュラー兼右の代打、1982年は「5番・レフト」のレギュラーとしてそれぞれ優勝に貢献している。1974年の最終戦は長嶋茂雄の引退試合で、中日の選手代表として花束を渡している。
輝かしい打撃成績を残したにもかかわらず代打起用が多かったのは、バッティングの調子の波が激しすぎた[1]他、守備に難があったためである。殊勲打を打っても失策でふいにしてしまうことが多々あった。
1982年9月28日 中日対巨人24回戦 - YouTube
尾張(終わり)決戦と名打たれたシーズン最後の首位攻防三連戦の第一戦。 首位巨人が序盤から主導権を握り4点リードで9回ウラへ。 ここから中日が怪物江川卓を相手に奇跡を起こします。
via youtu.be
1985年に西武ライオンズからトレード要請があったが、マスコミに漏れてしまい破談となる[2]。しかし1987年オフ、監督の星野仙一のチーム改革により、田中富生・大宮龍男との交換で日本ハムファイターズへ曽田康二とともに移籍。星野の意向で球団から功労金をもらっている[3]。すでに37歳であったが、日本ハムでは一塁手としての起用が多く、チームの得点力不足もあって主軸として活躍し、1990年8月21日の対オリックス・ブレーブス戦で通算2000本安打を達成。39歳10か月での達成は当時最年長記録で、到達までに要した試合数2290も当時最長記録だった。なお、1・2年目ともに出場試合数ゼロでの達成は史上初である
1994年、代打起用がメインだったものの43-44歳にして.323の高打率を記録したが、同年オフ就任した新監督の上田利治の構想から漏れ現役引退。現役26年は山本昌(2014年時点で31年)、工藤公康(29年)、中嶋聡(2014年時点で28年)、野村克也(27年)に次ぐ記録。通算代打本塁打20本は歴代2位。
ベストナインを1度も受賞していない。通算2000安打以上を記録しながらベストナイン選出がないのは大島と松原誠の2人だけ。1979年には一塁手として打撃3部門全てにおいて王貞治を上回ったにもかかわらず、その王にタイトルを持っていかれ、1983年には外野手として本塁打王を獲得したのに受賞できなかった(受賞者は本塁打王を分け合った山本浩二、盗塁王の松本匡史、最多安打の田尾安志)。
瞬間湯沸かし器として、チームを引っ張ってきた男
1995年からNHKの野球解説者を務め、評論家として活躍する。
そして、2000年に日本ハムの監督に就任。しかし成績は振るわず、2002年に解任される。監督としては熱血漢まるだしの男として知られ、長嶋茂雄ばりの動作、指導方法で有名になったのです。
そして、2000年に日本ハムの監督に就任。しかし成績は振るわず、2002年に解任される。監督としては熱血漢まるだしの男として知られ、長嶋茂雄ばりの動作、指導方法で有名になったのです。
身長185㎝、体重85㎏
右投げ、右打ち
ポジション:三塁手、一塁手、外野手
中日ドラゴンズのキーマンとして、チームの優勝にいろんな形で貢献してきた選手である。
代打の切り札として、準レギュラーとして、もちろんレギュラーとしても活躍し、本塁打王も獲っているほどのスラッガーである。