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通算47勝は山中正竹の48勝に次ぐ史上2位。1977年10月22日、対明大1回戦を5安打完封して47勝目を挙げた翌23日、リーグ最終戦の対明大2回戦に勝てば通算勝利で連盟タイ記録になったが、江川は「うちには投手は他にも沢山いますから」と、あっさり登板を鎗田英男に譲っている。通算17完封は連盟記録、ベストナインにも6度選ばれた。これは高田繁(明大→巨人)の7度に次いで、谷沢健一(早大→中日)の6度と並ぶ連盟2位の記録である。奪三振数(443個)も2002年秋に当時早大4年生だった和田毅(476個)に更新されるまでは歴代最多だった[15]。
2度目の入団拒否 クラウンを蹴り米国留学
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師走最初の土曜日。東京・平河町にある後見人、自民党副総裁船田中(ふなだ・なか)氏の事務所で法政大・江川卓投手は、11月22日のドラフト会議で1位指名したクラウンライター(現西武)への入団拒否の声明を発表、クラウン側に対して正式な入団拒否の通告をした。
江川は船田一族が経営する、母校の作新学院高の野球部コーチの肩書きで、知人のつてを頼って米・南カリフォルニア大に留学する道を選んだ。とはいっても、同大の学生になるわけではなく、客人扱いで野球部に練習生として所属するというものだった。社会人のチームに入れば、2年間はドラフト対象外になる。回りくどい浪人の道を選んだのは、あくまでも“巨人入り”を目指す江川にとっては、窮余の策だった。
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空白の1日
11月20日、江川はアメリカ留学を突如切り上げて緊急帰国。その翌日の11月21日午前に、巨人は江川と入団契約を締結。巨人側は「ドラフト会議の前日は自由の身分で、ドラフト外の選手として入団契約可能」と解釈し、ドラフト外入団という形で契約締結を決行する形となった。
阪神がドラフトで交渉権獲得
他球団は江川を指名する意思は無かったとされるが、巨人の抜け駆け契約に抗議する形で江川を指名する球団が現れ、ドラフト会議において南海ホークス、近鉄バファローズ、ロッテオリオンズ、阪神タイガースの4球団が1位指名した。
(中略)
この年から採用された「複数球団による重複指名→抽選」方式によって、4球団の抽選の結果、阪神が交渉権を獲得[5]。
巨人側はあくまで江川との契約の正当性を主張。「全12球団が出席していないドラフト会議は無効であり、阪神に江川交渉権獲得はない」と日本野球機構コミッショナーの金子鋭に提訴した。また11月23日、巨人側は江川卓選手の地位保全の仮処分申請を東京地裁に申請した。巨人のオーナーであった正力亨は江川との交渉権が認められないのであれば巨人がセ・リーグを脱退してドラフト制度に左右されない新リーグを作る構想を公言。そのため、12月中旬でありながら翌年の開催日程も組めない非常事態に追い込まれた。
コミッショナー裁定
金子は巨人の訴えを退けたが、翌12月22日のプロ野球実行委員会において「江川には一度阪神と入団契約を交わしてもらい、その後すぐに巨人にトレードさせる形での解決を望む」という“強い要望”を提示した。
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電撃トレード
しかし、1979年1月31日、巨人と阪神は、阪神が江川と一度入団契約を交わし、同日中に小林繁との交換トレードをすると発表。阪神は最終的に金子の要望を受け入れることとなった。
「野球が好きだから阪神に行く。同情は買いたくない」