黒船としてのヘーシンク選手
1958年に、東京五輪(64年)が決定し、日本は直ちに五輪での柔道の公式競技化を申し入れた。そして60年にローマで行われた五輪国際委員会で、柔道は「オプショナル競技」として認められた。五輪で柔道を実施するかどうかは開催国が都度決定するという意味である。実際に68年のメキシコシティ大会では柔道は行われなかった。しかし72年のミュンヘン五輪以降は、途切れることなく継続されている。階級制については、すでにアメリカやヨーロッパでは標準的なものとなっていたが、当時の日本の保守派は依然として反対していた。
そんな日本の保守派が折れて、階級制の大会が開かれるようになったのは、1961年の世界選手権におけるヘーシンクの圧倒的な強さのせいだった。日本の関係者が密かに考えたのは、ヘーシンクのような体格と能力を持つ選手が五輪に登場するとなれば、日本はお家芸柔道で無冠に終わるのではないかとの懸念であった。自国開催五輪でそのようなことになれば、大きな恥となる。日本は当初、3つの階級を提案した。逆に欧州諸国の中には、無差別級を主張する国もあった。ヘーシンクが優勝したのは無差別級だったからである。
日本の関係者は、階級制で妥協する一方で、ヘーシンクの五輪出場を食い止めようとした。ヘーシンクが、柔道の指導で金銭を受け取っていたことが発覚したのである。これは、当時の五輪のアマチュア・コードに違反することであると思われた。日本の関係者は、そこを問題にすれば、実は日本の多くのトップ選手も出場停止になる可能性があることはわかっていた。それでも、日本の選手層は厚いので、仮に二線級が出場しても、各階級で金メダルを独占できると考えていたのである。しかし、このときの五輪委員会での検討の結果、プロとして試合をしていない限り、指導料を受け取るだけでは、アマチュアの定義には反しないとの裁定が下されることとなった。
ヘーシンクは結局、世界選手権に続き、東京五輪でも金メダルを獲得した。ブラジルで開催された翌65年の世界選手権では、ヘーシンクは日本の新生、坂口征二を重量級の試合で下した。しかし、68年メキシコ五輪で柔道が採用されないことを聞いたヘーシンクは、67年には柔道を引退し、石油会社を設立した。
神永昭夫 VS アントン・ヘーシンク (64`東京五輪)
最後に!!
2020年の東京オリンピックで柔道の試合をより楽しむためにも、1964年の東京オリンピックの知識が一助になれば幸いです。
日本のお家芸の柔道が初めて採用された東京五輪に出場し、日本武道館で圧倒的な強さを見せつけた。決勝で神永選手を袈裟固めで破って日本に衝撃を与えた。この際、歓喜のあまりに畳に駆け上がろうとしたオランダ人を制したことで「伝統的日本の心を持つ外国人柔道家」と言われた。身長198センチ、体重120キロの巨漢で、61年世界選手権のほか、欧州選手権でも優勝を重ねた。
引退後は柔道の普及に尽力し、87年にIOC委員に就任した。自ら発案したカラー柔道着の導入で主導的役割を果たした。しかしIOCでは、2002年ソルトレークシティー冬季五輪招致に絡む買収スキャンダルにかかわったとして、99年に警告処分を受けた。
一時はプロレスラーとして日本のプロレスのリングに上がった。日本のファンにも親しまれ、97年に勲三等瑞宝章を与えられた。
彼の圧倒的な強さは、柔道界だけなく、一般の日本人にまで強い衝撃を与えるものだった。まさに柔道界において、黒船の襲来であった。